HyperLolia:InnocentHeart
−青空−
001:Blue Sky



「…?」

ロリアが意識を取り戻したとき、真っ先に目に映ったのは
ただ深く、大きく広がる空の蒼だった。

(あれ、私、どうしたんだろう…)

空ろに開いた目に、眩しい影が揺れた。
絹のように輝く金髪を掻き上げながら、蒼い二つの瞳が彼女を覗き込む。

「…目、覚めた?」

労わるでも軽蔑するでもない…ただ、つまらないものを見るかのような視線で
まっすぐ見下ろされたまま、その声は発せられた。

「み…ミアン…?」
「ふん、意識は戻ったようね」
「…わたし…っ、痛っ」

ロリアは身体を起そうとして、腕に走った鈍痛に顔を顰める。

「馬鹿ね。回復するまで寝てなさい」

ミアンと呼ばれた少女は、肩を竦めながら彼女から離れた。
そして、木陰に腰を下ろし…もう一度ロリアを見ながらため息をついた。

(そっか、ここは…初心者訓練場)

ロリアは痛みと共に、今、自分が何をしているのかを思い出した。

冒険者の登竜門、初心者訓練場…。
ミッドガルドの人間が冒険者として生きるためには、ここを卒業しなくてはならない。
そして王国からの認可を受けて初めて、一般人立ち入り禁止ダンジョン等への進入や
カプラサービスの利用、武器・防具の購入等が許される。
つまり、ここを卒業する事は冒険者として当然の通過儀礼に過ぎないのだ。

ロリアーリュ・G・ヴィエントことロリアは学科試験をクリアし、
今まさに実戦形式の戦闘試験に挑んでいる最中であった。

この広大な試験場の中庭に放たれたモンスター…「ファブル」と呼ばれる殻性節虫は
人間の膝丈に迫ろうかという巨大な虫ではあるが、動きも遅く、通常人間に害するような危険な存在ではない。
だが、この試験場では土に特殊な成分を持つものを調合しており、
この土で育った樹木を餌にするモンスターは攻撃性が高くなる事が知られていた。

大量に解き放たれたファブルを駆逐、または回避し、このエリアを切り抜ければ試験は合格。
要求されるのは戦う力、そして不屈の闘志。
その為、何度傷つき倒れても再挑戦できるシステムだが、ここで自身に限界を感じたり
冒険者という存在の遠さに気づき、諦めていく者も多い。

そして、今ここにいるロリアという十六歳の少女にとって。
今まで、料理用のフライパンや包丁は持ったことはあっても、
戦闘用ナイフという「武器」を用いて「生物を殺す」という行為を、
自発的に行うというのは…それは、想像を絶する世界であった。

「まったく、あなたって人は学習能力ってものが無いのかしら」
「…で、でも、だんだんコツは掴め…痛っ」
「2回も3回もマグロみたいにゴロゴロ転がって、見てるほうが呆れるわよ」
「…はは…私、冒険者に向いてないのかも」

ロリアはゆっくりと上半身を起す。
冒険者ノービスクラス試験用に支給された服のあちこちが、破れていた。
あの緑色のイモ虫が、食いちぎった跡。
(これが手や足だったら…)
想像するだけで、思わず生唾を飲むような薄ら寒さに襲われる。

「…そうね、はっきり言って冒険者の才能は無いんでしょうね」
「あは…やっぱり、ミアンもそう思う?」

無理やり苦笑いしながら、ロリアは自分の弱さに涙が出そうだった。
これが四回目の試験挑戦だった。

自分なりに色々と策を講じ、考えてやっているつもりだった。
だが、あの敵…ファブルと対峙すると、手に持ったナイフが動かない。
生き物を殺すのが嫌だ、なんて理由ではない。
今までの、自分の平凡な生活の中に居た生き物とは何もかもが違いすぎるのだ。
大きさ、凶暴性、それが集団で襲ってくるという恐怖。
打ち立てたナイフの音、緑の血の匂い…。
自分が、今までとまったく違う世界に入り込んでいるような感覚。
そのまま抜け出せない、恐ろしい世界に自ら飛び込もうとしているのではないかと、
根拠の無い恐怖が躊躇を誘っていたのだった。

「しかしまぁ、想像以上の素質の無さね。
 剣の天才、リーンネートの妹とは思えないわ」
「…リーンお姉ちゃんは、私なんかとは全然違うから」

王国軍大佐、ラスター・G・ヴィエント卿の四人の娘。
長女、リーンネート
次女、ファルセンティア
三女、ロリアーリュ。
四女、アイネリア
千年前に自由騎士団で戦った英雄の血を受け継ぐ、由緒正しい家系であったが為
女児が続くことに、後継ぎの男児を求める周囲の落胆は大きかった。

だが、長女リーンは天才的な剣技の冴えを幼ない頃から発揮し、
弱冠十五歳にして既に、王国騎士団に推挙されるほどの実力者と認められていた。
…しかし三年前。
あらゆる仕官の誘いを断り、リーンは別大陸へと旅に出てしまった。
その目的が剣技の修行なのか、別世界の憧れなのかは定かではない。

ここ一年は、便りすら無いが…あの強い姉のことだ。
きっと元気に、忙しく剣を振っているのだろうとロリアは思う。

「そりゃそうよ。リーンネート並みの天才がホイホイ居たら、
 このミッドガルドの魔物なんて全部駆逐されてるわよ」
「………」
「私たちがいまさら、冒険者になんてなる必要が無いくらいに、ね」

そのミアンの言葉に、ロリアは唐突に思い出した。
(…私が、冒険者になる理由…)
きっかけは、半年前の…事件だった。




「籠は持った?手袋は?ほらほら、日傘もあった方がいいわよ」

エアリーはばたばたと動き回るロリアを見ながら、心配そうに声をかける。

「分かってるよー!お母さんこそ、自分の準備はいいのっ?!」
「もう済んでますよ…あなたはいつも、何か忘れるから」
「酷い言われようね、ロリア」

母の横で、姉のファルセンティアはクスッと笑った。

「ファルお姉ちゃんはいいな、重いのはその剣だけじゃない」
「いきなり魔物が襲ってきたら、戦うときに荷物が多いと邪魔でしょ」
「…何か私って、いつも荷物もちだよ」

頬を膨らませるロリアに、二人は一緒に笑った。
ロリアと姉のファル、母のエアリーは三人でフェイヨン郊外の森の奥に、
食材や薬草を取りに出かける所だった。

通常、一般人が街を出て魔物の出る警戒地域をうろつく事は禁止されていたのだが
軍人の身内がいることや、ファルはリーンに及ばないものの、姉譲りの剣技を持つことで知られていた事。
若い衛兵の中には、この姉妹に好意を持つ者も多かった事…などの理由で、割と頻繁に特例を受けていた。

「お気をつけていってらっしゃいませ」
「いつもありがとうございます」

ファルの微笑に、衛兵が照れて視線を逸らす。

「ま、また、今度、剣のお相手など、お願いしたいのですが」
「私などで良ければ、喜んで」
「あ、ありがとうございますッ」

ひときわ甲高い声を上げる衛兵に会釈して、三人は森の方へと歩き出した。

「うーん、いい天気!」

満面の笑みで空を見上げるロリア。
雲は少なく風は穏やか、その頭上は一面の輝く蒼色で包まれていた。
外に出かけるのには最高の日和である。

「ファルお姉ちゃん、衛兵さんと剣の練習してるの?」
「うん、たまにね…衛兵小隊長さんが、父さんの元部下だったらしくて、その関係でね」
「さっきの話し振りだと、相当痛めつけちゃってるんじゃないのー?」
「ふふっ」

ロリアの問いに、ファルは悪戯っぽい笑いを返すだけだった。
ファルセンティア・G・ヴィエントは、ソードマンとして王国に登録されている立派な冒険者である。
もっともそれは、ひとつの資格として自分を試してみた成果…とも言うべきもので
彼女自身、冒険者として生きるつもりは無かったし、実際にそれらしい活動もしていない。
もっとも剣技にプラスして美貌のおかげで、こと仕官の口には困らない状況にあり
いつでも自称冒険者を廃業できる立場でもあった。

「ファルお姉ちゃんが王立軍に入れば、お父さんも追い抜いちゃうかもよ」
「ふふ、それも面白そうね」
「だめだめ!軍人なんて、お父さんだけで十分ですよ」

それまで先頭を歩いて、草木を物色していたエアリーが顰め顔で振り向く。

「あんなもの、マトモな女の子の勤める仕事じゃありません」
「お母さんが言っても、説得力ないと思うけど」

エアリーは二十年前、軍病院に看護兵として一等兵待遇で所属していた。
戦闘訓練の経験に加えて、四度の魔物討伐隊に従軍しているのだから、立派な軍人であったと言っても良いだろう。

「経験者は語る、よ。
 口ばっかり達者な、お調子者の士官に捕まったら大変よ」
「捕まった人が言っても説得力無いって!」
「私は見る目があったからいいのよ、出世頭のね」

父・ラスターの現在の階級は大佐、突撃装甲騎兵隊の中隊長を勤めていた。
家柄が多少明るいとは言え、士官学校も出ずにこの地位は彼の非凡さを表していると言える。

「…でも、本当に」

エアリーは一転、真面目な口調になって、二人の娘を交互に見つめた。

「英雄の血とか、軍人の子とか…そんな事は関係ないわ。
 あなたたちには、あなたたちの幸せを追い求めて欲しいの」
「お母さん…」
「…お父さんやリーンと同じ道じゃなくても、幸せに生きていけるはずよ」

殊更それは、ファルに向けられた言葉だった。
ファルにとって愛すべき姉であり、剣技の先輩であり、師匠であり
そして…いつか越えたいと思っていた存在がリーンであった。
エアリーはそれを知っているからこそ、ファルがリーンを追って、
盲目的に同じような道を選ぶまいか…と不安を感じているのだった。

「大丈夫よ、お母さん」

母を安心させようと微笑みながらそう言ったファルではあったが、エアリーの不安は的中していた。
彼女は翌月、アルベルタに寄港する大陸間航路船に乗り込む計画を既に立てていた。
今夜の晩餐でそれを発表するつもりだったのだが…先にクギを打たれたようで
少々言いづらい気持ちになってしまい、心の中でため息をついた。
…もっとも、それで揺らぐような意志でも無かったのだが。

「まったく、ウチの娘はお転婆ばかりで困っちゃうわねえ」
「アイネも寄宿舎暮らしで、少しは大人しくなったかしらね?」
「変わってないほうに50ゼニー!」
「あらロリア、それじゃ賭けにならないじゃない」

三人共思わず、吹き出して笑ってしまう。
四女・アイネリアは現在、プロンテラにある神学校で寄宿舎暮らしをしている。

四姉妹の中でも特に、気の強さと暴れっぷりで手の施しようが無かった彼女を
いわば矯正施設に投げ込んだのは、父・ラスターの意向が大きい。
その気性が大人しく、女性として相応しいものになればそれに越したことは無いし
そのまま聖堂勤めの神官への道を進むのも悪くないと思っていた。

…とにかく、リーンが旅立ち、ファルもまた剣術に意欲を見せている今、
ロリアとアイネだけでも淑女たれ!と、それが父親のささやかな希望であったのだ。
肝心のアイネはそんな事露知らず、父親の薦めと都会への憧れから
二つ返事でそれを受けて、早々と入学してしまった。

「厳粛な雰囲気の中で生活すれば、少しは大人しくなると思ったのにねぇ」
「今まで届いた手紙見れば、何も変わってないってよーく判るもん」
「遅刻の常習犯、校則破りの女王、恐怖の器物破損女…よくもこう悪評を重ねたわねえ」
「アイネらしいって言えば、らしいけどねっ?」
「…それもそうね。お父さんは嘆き悲しむでしょうけど」

ロリアは頷きながら、今日…一年ぶりに帰省する妹はどう成長しているだろうと、思いを馳せた。

「アイネ、成長してるかな。背も高くなったかな」
あなたの胸には適わないでしょ」
「なっ!」

ファルのからかうような言葉に、ロリアはさっと頬を染める。

「む、胸のことは言わないでよぅ!」
「あーあ。毎日同じ物食べていて、何でこんなに差が出るのかしら?」

アイネはまだ十四歳の発展途上だからともかく。
リーンは控えめであったし、ファルも自慢できるほど大きくはない。
この四姉妹にあって、ロリアの胸の豊かさは突出していると言えた。

「あらあら、ロリア。それは女の武器なんですからね!有効に使って立派な殿方を捕まえるんですよ」
「…お、お母さんがそういうこと言うなー」

半ば脱力したロリアの姿を見ながら、二人は笑う。

「さぁさぁ、話してばっかりじゃ、集まるものも集まらないわ。
 アイネが帰ってくるまでに、ご馳走を作らなければならないんですからね」
「そ、そうだよ。早く食材を集めようよ」

話題が変わったことにロリアは飛びついたが、
実際、話ばかりしていて手が動いていないのは事実だった。

「じゃ、二人とも必ず私が見える位置に居てね」
「はーい」

護衛を兼任しているファルの声に、ロリアは手を上げて頷いた。
…その時である。
緩やかな風の流れに乗って、遠くから何かの物音が三人の耳に入ってきた。

「あら…何かしら、今の」
「ファルお姉ちゃん、聞こえた?」
「これは…人の声?」

三人には人の声のように聞こえたが…一瞬、音は完全に途切れて。
次の瞬間、人のものではない…荒々しい吐息が、無数に聞こえてきた。
さっ、とファルの表情が険しくなる。

「…狼の群れが、近くに居る!もしかしたら、人が襲われているのかも」
「えぇっ?!」
「おかしいわね…この辺の狼は、こちらから手を出さない限り大人しい種のはずなのに」

(…まさか)
ファルは思いついた可能性について、あまり考えたくなかった。
何故なら…これが的中していると、少々大変な事態になりそうだから…だ。

(ここは、二人を連れて逃げたほうがいいかもしれない)

ファルがそう思ったのは、正解に違いなかった。
…が、状況の変化の方が少々早すぎた。

「うわぁっ!」
「た、助けて…!」

ガサガサと草木を掻き分けて出てきたのは、真っ青な顔をした冒険者だった。
ノービスクラスと呼ばれる、冒険者見習いらしき服を着た男女、
少女がぐったりした男性を負ぶって、涙で顔をくしゃくしゃにしている。
それに、アーチャークラスと思しき少年。
弓を腰に備え、ナイフを片手にしている所を見ると、まだアーチャーとしては半人前なのだろう。

三人の姿が明らかになり、ロリアは息を呑んだ。
少女の背おった、ノービスの少年の左足。
その足首から先がぶっつりと途切れ、鮮血が噴出すままにたなびいていたからである。
森から迫る脅威に対峙し、抜刀態勢に入ったファルは自分の横を通り過ぎた三人に目もくれずに、ただ警戒に集中する。

「…いけない、止血しないと!」

エアリーがノービスの少女を止めて、少年をその場に下ろさせる。
(出血量が多すぎるわね…)
緊急用の医療器具を出しながら、もう間に合わないかも…と、悪い考えが頭を過ぎった。

「助けて…助けてください」

ぼろぼろに泣きながら懇願する少女は、はたして少年の事を言っているのか、
それとも迫り来る脅威から自分を救って欲しいのか。
蒼白の表情で繰り返される言葉の真意は、ロリアには判らなかった。

「敵は?!」
「お、狼です!狼の群れが、いきなり襲ってきて!」

アーチャーの少年の声に、ファルは思わず舌打ちをした。
この森の奥に「さすらい狼」と呼ばれる凶暴な狼のボスと、その群れが居るのは知っていた。
だから自分が警戒して、その生活領域に入らないようにしていたのだが…。
冒険者を追ってこんな森の外縁まで出てくるとは、思いもよらなかった。
三人なら逃げるべきなのだろうが、ケガ人が居ては…人を背負った人間に進行速度を合わせていては、逃げ切れる訳が無い。
しかもその二人からまず餌食になるだろう。

(姉さんから譲り受けたこの剣で、どこまで立ち向かえるか…)
(今の私の実力では、倒すことは難しい…いや、捌くだけでも精一杯かもしれない)
(けど…!)

彼女の決断は、態度で示された。
すらり…と腰の剣を抜き、鞘を打ち捨て、構えるその姿は凛とした強さに満ちていた。

「母さんとあなたは、ケガ人を守って!
 絶対にこちらに攻撃の手を出さないように!」

ファルのその声に、ノービスの少女がこくこくと頷く。
エアリーは止血の作業で手一杯の様子だった。

「アーチャーの君は、私の支援をして。弓は使えるんでしょう?」
「は、はい。でも、ナイフで叩いたほうが強いくらいで…」
「構わないわ、なるべく遠くから、しっかり狙って撃ってちょうだい」
「わ、わかりました…けど、あの数じゃ、逃げた方が…」
「あなたのお友達を、餌に残してもいいなら…私だってその方がいいと思うわ」
「!…す、すみません…!」

上ずった声で答えたアーチャー少年は、ぎこちなく弓の準備を始める。

「ロリア」
「う、うん!」

ファルに名前を呼ばれて、自分が何をすべきかに耳を澄ます。
戦うのか、守るのか…覚悟なんて出来ていないが、母と姉と、一緒ならと。
可能な限り頑張ろうと、勝手に決心していたのだが…ファルの言葉は、意外なものだった。

「逃げなさい」
「…えっ?!」

他の誰もが今、この場で命を掛ける戦いの最中にいる筈なのに。
それぞれが戦いに身を投じるべき瞬間に、姉は平然と、私に逃げろと言うのか?!…と、ロリアは耳を疑った。

「な、何言ってるのファルお姉ちゃん!」
「あなたが一番、戦力にならないからよ。判るでしょう」
「だからって、逃げるなんて嫌だよ!!」
「…冗談よ、勘違いしないで。街まで戻って、軍の守備隊を連れてきて」
「え…」
「ケガ人も居るし…私自身、どこまで戦えるか未知数なの」
「そ、それじゃなおさら、行けないよ!」
「だから、早く援軍を連れてきてって言ってるの!行きなさい!足は速いほうでしょ!!」
「ふ…ふぇ…」

確かに、姉の言うとおりではある。
ロリア自身も自分が今、いかに役に立たない存在かくらいは自覚している。

(で、でも…!)

姉の怒声に涙顔のまま、ロリアは母の方を見た。
エアリーは何も言わずに、微笑みながら…強く頷いた。

(お母さん…)

その顔に、後押しされて…ロリアは手にしていた籠を捨て、さっき来た道を引き返す。
涙が浮いた側から飛び散るほど、全力疾走で走りだした。
今は姉と母の判断が、正しいに決まっている、少なくとも自分の判断よりは絶対良い筈だ…そう、自分に言い聞かせながら。

(お姉ちゃんは強い、お母さんも強い、私なんかよりずっと強い!)
(だから、絶対大丈夫…!)

振り返れば、きっと戻りたくなる…それが判っているロリアは、まっすぐ前だけを見ながら、ただ速さだけを増し続けた。

その足音が遠ざかるのに合わせるように。
狼どもの唸りが、ファルを取り囲むかのように広がりながら…近づいてきた。
恐怖、戦慄…未知の敵と戦うプレッシャーに耐えながらも、ファルはある種の高揚感に包まれていた。

(リーン姉さんなら…きっと…)
(…私だって…!)

戦場にあって、敵を見ずに姉の影を見てしまった事。
…ファルはこの日の後悔を、恐らく一生忘れないに違いない。





ロリアが激しく、息を切らせて戻ってきた時。
全てが終わっていた。

「…ファルセンティアさん!大丈夫ですか?!」

全身血まみれになって、樹に寄りかかり…動かないファルに声を掛けたのは、
ロリアが連れてきた十二名の兵士のうちの一人で、三人で街を出るときに話した青年だった。

彼女はゆっくりと視線を動かして、頷いた。
血まみれ…といっても、返り血が凄いというだけで大きな怪我もしていなかった。
だが、その瞳に力は無く…まるで魂が抜けたかのような有様だった。

「…な、に…?」

ロリアには、目の前の光景が信じられなかった。
受け入れ難いそれが、視界に入っている事をどう否定したらいいのか。
認めるには、自分をどう誤魔化せばいいのか…時間を戻すことができたら…。
そんな、繰り返す事に意味のない思考ばかりが、ぐるぐる回る。
全身から力が抜け、がくん、と膝をついた。

「…お、お姉…おねぇ、ちゃん」
「…何、で…お姉…ちゃん?!」

静かな問いに…ファルは答えずに、空虚な瞳で俯いていた。

震えながら弓を構えていた、アーチャーの少年が。
泣きながら助けを請うていた、ノービスの少女が。
その少女に抱えられ、生死の境を彷徨っていた少年が。
彼の治療をしながら、最後に、ロリアに向かって微笑み、頷き…行けと、背中を押してくれた母が。
…そして、無数の狼たちが。

あの時、ここに残ったファル以外の全ての者が、一面に赤く染まった草原の中に身体を横たえていた。
兵士達は一斉に、黙祷を捧げる。

その中をロリアは、這うようにして母の傍へと向かう。
エアリーの表情はまるで眠っているように安らかで、優しいままだった。
声を掛ければ…今にも目を開いて、笑い出しそうなのに、とロリアは思う。
しかし、だらんと伸びた右手の傍に、短剣が転がっているという戦いの跡。
その右手の先が真っ赤に染まり、指が二本しか残っていないのを見て、息を呑んだ。

(怖かった…?痛かった…?)
(…私はどうして、そんな時に、お母さんの傍に居なかったんだろう…!)
(私は…!)

「…どうしてなのよぉぉぉ!!!」

ロリアにはただ、何もできないまま全てが終わった…という無力感と、
母を失った悲しみに押しつぶされそうな恐怖に、声を上げる事しか出来なかった。

見上げた空だけが、三人で家を出たときと変わらないまま…蒼く、美しく輝いていた。



NEXT - "002:Beginning"