HyperLolia:InnocentHeart
−復讐の夜−
012:Revengers Night


ロリア達一行がアルベルタへ向けて出立してから、既に半月が経過しようとしていた。

イズルードから群島地帯を抜け、森を南進して砂漠に面した平原地帯を経て、
やや南側に進路を取りつつフェイヨンの森を東進する。
途中、街には寄らずに無補給のままさらに東へ。
これはロリアとフリーテの二人に、補給の少ない長旅の経験を積んでもらう為のオリオールの案だった。
そして、三人はこれまで比較的順調に旅を続けていたと言って良い。

だが…フェイヨンを過ぎた頃から、ロリアの様子がおかしい事に最初に気付いたのはフリーテだった。

ガサッ!
「!?」

ロリアが小さな音のした方へ、弓を構える。
俊敏に反応し、かつ…正確に矢を番えるその姿。
この旅に出た頃に比べれば、格段に『冒険者』らしく育っている。
だが…まだ街に近く魔物も弱いものしか確認されていないこの地域にあって、
ロリアの警戒態勢が必要以上に高まっている事に、他の二人は疑問の顔になる。
音のした茂みからは虫を咥えた小さな鳥が飛び出し、空へと舞い上がっていった。

「どうしたんだ?落ち着きたまえ、ロリア。
 この周辺にはそう警戒を必要とするような、強力な敵は居ない」
「え…あ、はい…。
 判ってるんですけど…」
「ろりあん、何だか変ですよ」
「………」

二人に不安げな顔で聞かれ、ロリアは弓を下ろす。
そして、ふぅっ…と自分を落ち着かせるように、深く息を吐いた。

「…ここから少し、北に行った所なんだよね。
 私やお母さん、お姉ちゃんが狼の群れに襲われたの…」
「あ…」

その心痛を察し、フリーテは言葉を失った。
冒険者生活に没頭する日々の中で、思い出す回数も自然に少なくなっていたが…。
さすがにあの惨劇の場所が間近となると、ロリアは湧き出す様々な感情に抗えないのであった。
心に悲しみ、憤り…そして、恐怖が入り混じり、平静でいられない。
心配そうに見詰めるフリーテに、ロリアは慌てて笑顔を作る。

「だ、大丈夫だよふーちゃん…私は大丈夫だから、そんな顔しないで!」
「ろりあん…」
「ふむ…」

と、オリオールも神妙な顔になり、ロリアに向き合う。

「つかぬ事を聞くが、君はそのグラスウルフの群れのボス…さすらい狼を見ただろうか?」
「え…ええ、見ました。
 他の狼より一回り大きくて…目が、赤く爛々と光って」

その姿を思い出してか、ロリアは一瞬ぶるっと身体を震わせる。

「君の姉は、奴を倒したのか?」
「判りません…ファルお姉ちゃんも、判らないって言ってました。
 あのボスはお姉ちゃんより、怪我をした冒険者さんや…お母さんを狙ってきたそうです。
 次々と周囲の人がやられていく様に、お姉ちゃんは逆上して…。
 …気がついたら一人になっていたって、聞きました」
「ふむ…」
「…ただ、沢山あった狼の死体の中に、あの大きなボスのものは無かったらしいです」

オリオールは頷き、難しい顔をしながら口を開いた。

「君らは、あのさすらい狼という存在がどういうものか…知っているかね?」
「と、言うと…?」
「…あれは、元々野生の狼だ。
 グラスウルフというのは戦闘時の獰猛さに比べて、平時は非常に臆病な動物だ。
 自分から人間に寄ってくる、ましてや襲おうとする事などあり得ない」
「私も、そう聞いてました。
 実際…何度もフェイヨンの外へ野草摘みに行きましたけど、
 狼に襲われるどころか、その姿を見た事も数えるくらいしか無いです」
「うむ…そこで、あの『さすらい狼』だ。
 あれは、強力な魔の波動に身体を侵食された個体で、元は普通の狼なのだ」
「魔の波動…聖戦以後、ミッドガルド中の戦場跡から湧き出すと言われる邪悪な瘴気…。
 黒い煙のようなものと言われていますが、それが何なのかは誰も知らない。
 主にアンデッドモンスターは、魔の波動によって動かされていると聞きます」
「あれは破壊・殺戮・渇望…聖戦時代に死んだ人々や悪魔達の魂が変質し、
 あらゆる負の衝動のみを抱えてこの世に這い出したものだと言われている。
 …元々、あれは『生命あるもの』それ自体に弱く、その為死者を弄ぶに留まっていた。
 だが…」
「生命あるものを…侵食するようになった?」
「…ここ数年、魔の波動の力は急激に強くなり、いわゆる動物や昆虫…。
 果ては植物や魚介類までをも獰猛に変質させ、人々を襲っている。
 コモド自治区の方では、人間まで侵食されているという噂もある…」
「そんな…」
「恐ろしいのは…あの波動はただ生物そのものを支配するのではなく、
 侵食した生物の肉体をより凶暴に強化したり、さらに同種の生物をコントロールしたりする力がある。
 さすらい狼とその群れは、まさに典型的なケースだな」
「どうして…?
 どうして、そんな事が起きるんですか!その、波動を止める事は出来ないんですか!?」

ロリアが唐突に、声を張り上げる。

「…それが判ったら王国も、数多の冒険者達も手をこまねいてはいないだろう。
 ただ…」
「…ただ、何ですか?」

フリーテが怪訝な目で、オリオールを睨む。

「…いや、はっきりしない事を語っても仕方が無いな。
 君たちは、聖戦終末論を知っているかね?」
「千年おきに、ミッドガルドの世界そのものが破壊し尽くされるほどの災厄…。
 神と、人と、魔による大戦争が勃発するというものですね」
「そうだ…そして、既に一部のミッドガルド人の間ではまことしやかに囁かれている。
 …魔の波動が強くなってきたのは、近々来るべき『聖戦』を前に暗黒の力が蘇り始めたのだと…な」
「聖戦のような大戦争が…また、起きると?」
「うむ…。
 そして…この災厄を世界の新生の為の、儀式…と捉える者たちも居る」
「儀式って…何かの物語じゃないんですよ!?
 魔物に被害を受けている人々が、現実に増えつづけているのに!」
「日々繰り返される、魔物の衝動的な破壊・殺戮活動…それに脅える市民たち。
 首都防衛にのみ力を入れる王国軍、効果的な対策を打ち出せない行政府。
 あげく冒険者の認可年齢を引き下げ…君らのような子供まで、死地に駆り出される事になる。
 その冒険者も、数が増えるほどごろつき連中と変わらない人種が幅を利かせていく…。
 …この世界は、確かに末期症状だ。
 あれから千年という区切りにもかこつけて、一度滅んだほうがいい…などという思想が出てきても、
 賛同するかはともかく、理解は出来ると思うが?」
「…そんな…」

黙って聞いていたロリアが、搾り出すような声で呟く。

「そんな理屈で…人が殺されていくのを、見過ごしていい訳が無い…!
 生きるのに都合が悪い世界だから、壊してしまえなんて…。
 目の前で死んでいく人たちを前に、誰がそんな事を言えるんですかっ!?」
「ろりあん…」

大きな時代のうねりに飲み込まれて、母が、前途ある冒険者達が死んだ…。
それが聖戦に向けての流れの中で抗えない悲劇だった…などとは、ロリアは認める事が出来なかった。
あの時自分に力があれば、一人でも救うことが出来たかもしれない。
そうやって助ける事の出来た誰かの未来は、いつか見知らぬ多くの人の未来と重なり…。
…新しい何かを生み出し、世界をより良い方向へ変えたかもしれないのだ。
そして、まさに冒険者である事がロリアにとって、その思いの実践の旅路なのだ。

「…人はいつでも、自分だけは無関係な者として叶わぬ期待を語る。
 聖戦が再び起きて、世界は一新されて…あたらしい秩序が始まるとしても、
 自分だけは生き残り、その中で生を謳歌する事を前提にしている…勝手なものだ」
「でも、終末論は確実に広がりつつある…。
 先月から、王国正教会で正式に十字軍が再編されると聞きました」

それを聞き、オリオールの口元が一瞬固くなったのをフリーテは見逃さなかった。
だが、それが何を意味するのかは判らない。

「十字軍…?」
「クルセイド・ホーリーナイツ…クルセイダーとも呼ばれる、正教会直属の戦闘集団だ。
 神々の地上代行者たる聖少女の下に集い、神意により邪を撃つ聖騎士団。
 今までも、世界に不穏な空気が漂うたびに編成されてきたのだが…」
「…聖戦より現在まで予言された聖少女は降臨せず、十字軍が実際に動いた事は無いそうですね。
 かつて8回の編成が行なわれたと聞きますが…」
「ふーちゃん、詳しいね」
「イズルードの宿で、たまたまクルセイダー志望の剣士の方と話をする機会があったんです」
「正確には、9回だが…。
 ともかく、終末論に合わせて今度こそ聖少女が現れる…そして始まる最終戦争に備えるのだと、
 正教会のお偉方は躍起になって十字軍編成を行なっているらしいがな。
 王国の重鎮である司教達がこの有様だ…一般市民がそれを見て、脅えない訳が無い」
「世界はゆっくり、静かに…狂い始めているのでしょうか」

フリーテの呟きに、三人共黙ってしまった。

「…私は」

最初に口を開いたのは、ロリアだった。

「世界の事とか、聖戦終末論とか、そんなの良く判らない…。
 ただ…何の罪も無い人々が、ある日突然、災厄の渦中に巻き込まれてしまう。
 そんな世界は、絶対に間違ってると思う…!」

母を襲った…言わば、不条理な死。
ロリアはそれを、運命とか摂理とかいうもので認める事は出来なかった。
そして…本来あってはならなかった悲劇、そしてもう誰にも起きてはならない悲劇だと信じていた。

「…随分話が逸れてしまったな、最初に戻そう。
 例のさすらい狼が、もし君の姉の手によって倒されているのなら問題は無い。
 だが、その時に取り逃がしていた場合…」
「と、言いますと…?」
「奴…いや、魔族そのものに言える事だが…奴等は執念深い。
 一度狙った獲物は何が何でも、魂まで喰らい尽くそうとする。
 …これは考えすぎかもしれないが、もし奴を取り逃がしていたのなら、
 顔を合わせたロリア…君は、奴らの獲物として覚えられている可能性は、ある」
「そんな!もう三ヶ月以上も前の事ですよ!?
 あんな獣が、ろりあんの事を覚えている訳ありませんよ!」

絶句するロリアに代わって、フリーテは思わずそう叫んだ。

「あれは獣ではない…むしろ、高位の魔族と呼んで差し支えない存在だ。
 波動は肉体を得て歓喜し、人の血肉を食い荒らすことに興奮している。
 魂の匂いを察知する奴等にとって、特に弱き者、抗えない者の恐怖は最高の調味料だ…」
「………」
「ただの狼の群れなら、いくらでも対処しようがある。
 火を怖がり、夜に行動できない奴らならな。
 だが…君の存在を察知したさすらい狼が、魔の波動で手下の狼を操って…となれば、
 攻撃は時間も状況も問わず、より苛烈なものになるかもしれない」

にわかに震えだした自分の身体を、ロリアは強く抱きしめる。

「…どうする、ロリア?これは君たちの旅だ。
 このまま先へ進めば、万が一にも奴等と出くわす可能性は否定できない。
 仮に出会わないとしても…そんな状態で、今までどおりに戦えるのかね?」
「………」
「そうですよ、ろりあん…!
 ここは一度フェイヨンまで戻って、東の森から回り込んで行くルートを取りましょう!
 無理に危険がある所へ、飛び込む必要なんて…」

ロリアはひとつ、自らの気を落ち着かせるように深い溜息を吐くと…。
笑みすら見せて、フリーテに向き直った。

「…ううん、ふーちゃん。
 危険を恐れていたら、冒険者なんてやっていけない。
 駆け出しの私たちだから尚更…危険に向き合わざるを得ない瞬間を、経験するべきだと思う」
「ろりあん…!」
(ほぅ、これは…武者震いだったとはな)

オリオールは意外なほどに立ち直ったロリアの強さに、心の中で感嘆した。
そして…さすらい狼が怖くて震えていたのではなく、内から湧き出る闘志を抑える術を知らず、
自分自身にみなぎる力に対して震えていたのだ。

「もし…お母さんや冒険者さん達を殺し、ファルお姉ちゃんと戦ったあのボス狼が生きているなら…。
 私の手で決着をつけなきゃいけない気がする」
「………」
「復讐戦、という訳か?容易ではない相手だぞ。
 一歩間違えれば、君らの旅はここで終わりになるかもしれない」
「復讐なんて、そんな大げさなものじゃないです。
 ただ、あの時逃げるしか出来なかった自分が、どれほどの事を…戦う、という事が出来るようになったか。
 自分自身に証明したい…のかも、しれないです」

気持ちを上手く言葉にできないもどかしさに、ロリアは難しい顔をした。

「フリーテ、君はどうなのだ?」
「ど、どうもなにも…出来れば、危険は避けて欲しいという気持ちは変わりません。
 でも、ろりあんが戦うのなら…私も一緒に戦うのみです」

ロリアとフリーテは、お互いの深い信頼を確かめ合うように…ただ、笑顔で頷きあった。

「ならば、決まりだな…このまま森を南東に向かって進む。
 今夜は平野部に出る前の森の中でキャンプをし、明日は一日かけて平原を突っ切る。
 これは、狼集団との戦闘になる事を想定し、なるべく広い場所を戦場に設定したいからだ。
 …以上で、どうだろうか?」
「私は構いません」
「それでいきましょう」

三人は頷き、また暫く旅の足を進めた。
ロリアの中からは、既に恐怖は消えていた。
今は悲しみに根ざした憤りだけが、熱い力となって身体に湧き上がるのを感じる。
不思議と、あの狼の巨躯を思い出しても…自分が負けることが、想像できない。

(そう…向こうが私を狙ってくるのなら、返り討ちにするんだから!
 お母さんや、お姉ちゃん…冒険者さん達、みんなの復讐を私が…私が!)

強大な敵を前にして、そのプレッシャーに耐えながらも…不思議な高揚感に包まれるロリア。
しかし、それはかつて自ら批判した…あの日のファルと同じという事に、まったく気付いていないのだった。



夜が更け、ロリア達はもう1キロも歩けば森が切れる…その木々の中でキャンプを張っていた。
狼どもは本来、夜は行動せず、焚かれた火があれば近づかない…とはオリオールの言だったが、
万一、さすらい狼が指揮する事を考えれば…警戒を緩めるわけにもいかず、食事は簡単な保存食で済ませる。
そして、2時間ずつ睡眠と見張りを交代で行なう事を決めた。

…だが、最初の交代時間が来るより早く、事態は急変した。

「…ぎゃぁぁぁ…!」

横になっても眠れずにいたロリアとフリーテは、突然どこからか聞こえて来た悲鳴に、
厳しい表情のまま身体を起こす。
オリオールは目を凝らし、声のした方角―西の森の方を睨んでいたが、
黒い木々で閉ざされた闇には変化の色が無い。

「オリオールさん…今のは?」
「…判らない。
 恐らく、狼どもでは無いと思うが…。
 奴らが襲ってくるにしても、東の平原側からだろう」

オリオールは緊張した面持ちのまま、エクセリオンの荷袋から松明を取り出し、
焚き火にかざして灯りを作る。

「私が様子を見て来る…君らは、ここから動かないように」
「判りました」
「気をつけて、オリオールさん」

小さく頷くと、オリオールは右手を背中のブロードソードの柄にかけ、
左手で松明をかざしながら、暗い森を西へと分け入っていく。
ロリアとフリーテは、闇に解けていく灯りをじっと見守っていたが、
それはやがて木々の間に消え去ってしまった。

「…大丈夫かな」
「それより、私たちも万一に備えて戦闘の用意をしておきましょう」
「そ、そうだね」

二人が装備を手に取り、戦闘準備を整え始めた時。
にわかに周囲で、がさがさと何かが蠢く音を耳にした。
そして、音は次第にこちらへと近づき…そして、数を増していく。

「ろりあん…これは」
「………」

ブレイドを抜刀するフリーテ。
弓を構えたロリアと、背中合わせに周囲を警戒する。
…そして、森の暗がりの中に炯々と輝く二つの瞳が現れた。
燃えるような血色のそれは、生命あるものの放つ輝きではない。
やがて…蒼い体毛と牙を持つ一匹の獣が、焚き火の灯りの中に姿を現した。



オリオールは周囲を警戒しながらも、声のした方へと早足で向かう。
もし冒険者が魔物に襲われているのなら、急がなければ助けられるものも助けられなくなる。
この周辺に夜行性の魔物は居ない、と言われているが…野盗の類に襲われている可能性もある。
どちらにせよ、あの悲鳴が聞こえたのは事実であり、原因は確かめねばならない。

と…しばらく駆けたオリオールは歩みを止め、それからゆっくりと進みだす。
森の向こうに、焚き火らしき灯りが見えたからだ。
ブロードソードを抜き、突発的な攻撃に対応できるよう身構えながら、その灯りを目指す。

「ガゥアッ!!」

と、それまでまったく気配の無かった草むらから咆哮が上がった!
ギィンッ!
飛び出してきた黒い影…その体当たりをオリオールは間一髪、刀身で防御する。
衝撃に身を崩す事無く、次の瞬間に走り出す!

(チッ…魔物の類か!それほど大型でもないが…!)

松明という灯りを持ちながら、そして木々の多い地形は両手剣を使う彼に不利なのだ。
焚き火の置かれたそこはある程度の空間があり、冒険者がキャンプベースとして利用した形跡がある。
そして…恐らく、それに習うように今夜ここでキャンプしていたのであろう二人の冒険者。
剣士の少年と、アコライトの少女が…血に濡れて、伏せていた。

(…間に合わなかった、か!?)

アコライトの少女は格好に激しい乱れも無く、眠るように倒れていた。
恐らく、暗がりから急襲され…最初の一撃が、そのまま致命傷になったのだろう。
逆に剣士の少年は、服におびただしい戦闘の跡を残し、その手にはいまだ剣が握られていた。
血と砂で汚れた顔に苦悶の表情を浮かべ、無念の様をありありと見せ付けられる。

だが、オリオールには彼らを悼む時間は与えられない!
森を徘徊する音だけが揺れ響き、やがてそれは漆黒の中で二手に分かれた。
オリオールは松明を投げ捨てると、左手で腰に備えられたマインゴーシュを抜く。
剣先を左右に向けながら、迫る来る『敵』に警戒を強める。

(来る!)

「ウガァアァァッ!!」

焚き火を背負ったオリオールの左右から、同時に飛び出してくる二匹の蒼い獣!
右から飛び掛ってくる影に、咄嗟に反応するオリオール。

「うおおっ!」

研ぎ澄まされた鉄塊…ブロードソードを、力任せに振り下ろす。
ザウッ!!
獣の額に命中したそれは、その勢いのまま頭部を地面に打ち付け、叩き割る。
だが、左側の…地面を滑るように迫ってきたもう一匹に、対応できるほど剣は軽くない。
その腕に噛み付こうと飛び込んでくる、大きく開いた口に牙が光る!
シャッ!
下から上へ、振り上げられたマインゴーシュ。
その刃先はかわされたが、獣もまた攻撃機会を失い、敵意の瞳を交差させるのみに終わる。
そして、機敏なターンでオリオールとの距離を取る。
この時になって、炎に照らされるそれを…改めて視認する事が出来た。

…平原の狼、グラスウルフ。
オリオールは両手の剣を構え直しながら、狼との間に焚き火を置くようにゆっくり動く。

「グルルルル…」

だが、獣の瞳は炎を介してもなお、オリオールに向けた戦意をまったく怯ませる気配が無い。

(こいつ…火を恐れない…!)

これが事実ならば、今、傍で倒れている若い冒険者達の油断も良く判る。
狼は火を恐れる…それは冒険者の間で定説とされる事柄であり、もしそれが覆る状況があるとしたら。

(そして、闇夜の襲撃…間違いない、か!)

オリオールが心に焦りを覚えると同時に、再び牙をむく狼!
殺戮にはやる血濡れの獣は、火に脅えるどころか…燃え盛る焚き火を踏み越えて、こちらに迫ってくる!

「くっ!」

火の粉を散らしながら迫るその姿に、低く、横に薙ぎられたブロードソードが迫る。
ザシュッ!!
だが、その感触はあまりにも軽い。
燃え盛る火に一瞬惑わされたオリオールの剣は、狼の後ろ足を両断するに留まったのだ。
その身体は牙を伴い、矢のように喰らいついた!
右手のガントレットに食い込み、バキバキと音を立てて折れていく狼の牙。
しかし、その巨大な口は腕の内側まで破壊しようと伸び、装甲を入れていない側にまで牙が食い込んでいく。
激痛と共に、噴き出す鮮血!
がしゃん、と音を立てオリオールの右手からブロードソードが落ちる!

「…う、おおっ!」

ザンッ!!
左手に持ったマインゴーシュを、その瞳から脳へ、深々と突き立てる。
ぶるぶると震える狼だが、その顎を緩めようとはしない!
ズシュッ!
短刀をえぐると同時に、赤黒い血が噴出し、オリオールの鎧を汚していく。
びくん、びくんと大きく身体を痙攣させて…狼は動かなくなった。
それでも牙は腕に食い込んだままで、マインゴーシュをその場に捨てると、
左手でその上顎を掴んで開かせ、ようやく獣の死体を離す事が出来た。

いくら夜間で、しかも森という地形のハンディがあったとしても
たかが狼の一匹や二匹、普段のオリオールならまったく問題にしない敵である。
彼が想定していた強さ以上の…何か、鬼気迫る殺意のようなものを持っていた。
そして、火を恐れない…その現実は、奴らが狼などと呼べる『動物』などではない事を示す。

(魔の波動に取り込まれたものに、操られているとしても…。
 しかし…それならば何故、たった二匹しか…)

そこに至り、オリオールははっと気付き…自分の浅慮に歯軋りした。

「まさか、こいつらは囮かッ…!?」

痛みの走る腕に顔をしかめながら、再び剣を拾い、松明を手に走り出すオリオール。
…だが、既に戦端は開かれていた。



「はあっ!」

ダンッ!
ロリアの放った矢が、闇の森に吸い込まれていく。
視界に確認できた狼は、五匹。
だが、まだ暗がりに身を潜めている気配がある。
接近戦になれば、不利になる事は良く判っているが…こう暗く、木が邪魔だと矢は当てにくい。
ましてや、動きの素早い狼である。
ロリアは腰のナイフを使うことになるかもしれないと、覚悟を決める。

フリーテはエクセリオンが無防備のまま襲われないよう、咄嗟に木に結ばれた皮紐を解く。
鳥目で夜は視界が利かないかもしれないが、繋がれたままではただ食い殺されるだけだ。
自由になったエクセリオンは、さすが戦闘用に調教されていると言うべきか、
ただならぬ周囲の殺気に静かに警戒しているようだった。

その様子を見届け、フリーテは腰の鞘と、風の精霊剣をベルトごと身体から外した。
敵の早さに対抗するために、こちらも軽量化しなくては…と考えた上での苦肉の策である。
本来ならロリアを後ろに置いての前衛となるべきが、状況は既に囲まれつつある。
狼達の迅速さもさることながら、後手後手に回った事が悔やまれる。

「ガウァッ!!」
「くっ!」

一匹が飛び跳ね、フリーテに向かって体当たり…を、何とか盾で防御する。
負けずに踏み込んでブレイドを降り下ろすが、狼は素早く横に飛んでそれをかわす。
舌打ちしながらもフリーテは盾を前に構え直し、改めて迎撃の体勢。

ドウッ!!
「ウガァアァァッァ!」

ロリアの放った矢が、彼女を狙って左右に動いていた二匹のうち、一匹の額に命中!
その狼は断末魔の咆哮を上げながら、ロリアとフリーテの方へ突進してくる。

「ふーちゃん、避けて!」
「!?」

二人が飛びのいた間…焚き火の中へ飛び込むと、盛大に火の粉を巻き上げながら絶命する狼。
危うく灯りを消される所かとフリーテは青ざめたが、なんとか火は無事に残った。
だが、それが狼煙なのか…狼達は一斉に攻撃の気配を見せる!
そして、ロリアとフリーテは距離を空けてしまっていた。

ロリアは高まる殺意を感じる方向へ、反射的に矢を二本連続で撃ち放った。
ダブル・ストレイフィングが狼の首下へと決まり、獰猛な叫びが響き渡る。

「ろりあん!」
「私は大丈夫!」

続けざまに襲ってくる狼!
ロリアは慌てて矢を放つが、しっかり狙わずに当たる物ではなく、それは地面に突き刺さる。

「外したッ!?」

咄嗟、左手で腰の鞘からナイフを引き抜く!
迫る獣の動きに、一瞬も目を逸らさない。
彼女の動体視力はターン、フェイント、次いで飛び掛る牙の動きを確実に把握していた。
シャッ!!
腕を伸ばしきり、弧を描いたロリアのナイフは、狼に届かない!
だが、意外な攻撃の手は狼を怯ませるに充分な効果があった。
着地、そして距離を取ろうとする獣の浅はかな動きも、ロリアには良く見えていた。

ダ・ダ・ダンッ!!
「ウガァッ!?」

気迫と共に放たれた三連射は、狼の腹部に次々と命中していく。
狼は気圧されるように、血を滴らせながら闇の森へと逃げていった。

(いける…!)

ロリアは自分の中の戦う力が、思った以上に向上している事を実感した。
オリオールの指導の元、弱々しい魔物相手にも様々に戦い方を練習していた。
その成果が、こうも身体の動きで発揮出来るとは…自分でも予想以上の事だった。
そして、そう思ったのはフリーテも同じである。

(ろりあん、凄い…!)

自らも狼の攻撃を剣で、盾で捌きながら、フリーテはロリアの戦いぶりに目を見張った。
今までも充分、冒険者らしく奮闘する姿は見てきたが…この圧倒的に不利な状況にあって、
逆に彼女の戦闘力はまるで急上昇したかのような、そんな印象さえ覚える。

しかし…フリーテは、狼達の素早い動きに翻弄されっぱなしであった。
盾を持つ彼女では、その早さに対応することが出来ず…また、二匹に交互に攻め立てられる事により、
なかなか攻撃のチャンスを見出せないでいた。

「ふーちゃん!」

ダンッ!
ロリアがフリーテの方へ振り向きざま、矢を放つ。
それは今にも彼女に襲い掛かろうとした狼の右目を貫いた。
突然の衝撃にのた打ち回る狼の首元に、フリーテはブレイドを突き立てる。
刃を引き抜きざま、今にも噛み付こうと飛んできたもう一匹を薙ぎ払う!
それは狼の頭部を直撃し、食い込んだ刃の重さにフリーテはバランスを崩す。
…が、なんとか踏みとどまり、改めて痙攣している獣にトドメを差した。

戦意ますます高ぶるロリアに対して、フリーテは冷たい汗をかいていた。
たった二匹の狼相手に、自分は苦戦しているという事実。
ロリアを守るはずが、逆に助けられているという現実。
自分の中の勇気を奮わせようにも、疑心、不安、恐怖…要らない物で心が埋め尽くされていく。

「ウォオオオオオォォオオオォオオオオォオォォオ!!!」

そして…それらを募らせるかのように、巨大な咆哮が森に響き渡った。

「な、何…!?」
「あいつだ…お母さんを殺した、あいつだ…!」

森の中で二人を見詰めていた、血色の瞳。
その巨躯が、ついに姿を現した。
普通の狼より2、3倍はあろうかという身体。
その左耳から目にかけて、鋭い斬り口の傷が残されている。
ロリアはファルセンティアのつけた傷だ…と、直感的に思った。

母を殺され…姉を傷つけられた、ロリア。
彼女の姉に身体を傷つけられた、さすらい狼。
それぞれが復讐すべき相手を前に、激しく憤怒の瞳で睨み合う。

「…こ、これが…敵…!」

フリーテはぶるっと、身体を震わせた。
その威圧感は、今まで戦ってきた魔物の非ではない。
全身から吹き出るような殺意、そして悪意…。
目の前の獲物をどう楽しんで殺すか…そんな、余裕じみた笑い声さえ聞こえそうな気がする。
そして、魔狼は…ロリアから視線を外し、フリーテへ首を向けてニタッと笑った。
…少なくとも、二人には笑ったように見えたのだ。

「ふーちゃん!気をつけて!」

ロリアが矢を放つが…その巨躯に似合わない、俊敏な動きでそれを避ける。
矢は背後の木に突き刺さり、次を装填しようとする、が。

「ガウァアァッ!!」
「!?」

突然、背後から現れた新たな狼に襲われるロリア。
体当たりを受けて、もつれるように倒れ込む。
狼は息を切らせながら、その身体に喰らいつこうとロリアに馬乗りになった。

「ろりあん!!」
「…くッ!」

だが、ロリアは咄嗟に狼の喉へと手を伸ばし、力を振り絞って握り締める!
狼は押さえ込まれた牙を突き立てるべくもがくが、爪が彼女の服を薄く引き裂くばかりである。

「ええぃッ!」

ドンッ!
そして、ナイフが深々とその腹に打ち込まれた。
噴出した血が、空色の狩猟服をどす黒く染めていく。
喉をわし掴んだまま、狼を身体の上からどけると…ロリアは俊敏な動作で立ち上がる。
既に、その周囲に数匹の狼が迫る気配があった。
弓を拾い、三本の矢を左手に挟みながら、さらに矢を番えて警戒する。

そして…肝心のさすらい狼は、ターゲットをフリーテに絞ったようだった。

「ふーちゃんッ!!」
「だ、大丈夫です!私が…!」

フリーテは安心させんが為にそう言ったが…実際、剣が当たらない。
さすらい狼は彼女が繰り出す攻撃を、ふわりとした動きで避ける。
まるで馬鹿にしているかのような、こちらをあざ笑っているような、そんな動きにも見える。
そして、たまに飛び出す鋭い爪の一閃に、フリーテは防戦一方だった。

…さらに、二人は気付いてなかった。
二人の距離がどんどん開いて孤立するように、戦場を拡大させられている事を。

「くうっ!」

さすらい狼の攻撃に、フリーテはじりじりと森の奥へと後退する。
そしてロリアも、次々と現れる狼達を相手に…募る戦意は、『敵』しか見えなくなりつつあった。



オリオールが全速力で走り、灯りが見えた頃には既に戦いの音が聞こえていた。

(…まだ、無事かッ!)

戦闘中、すなわちまだ生きている…最悪の事態では無い事に胸を撫で下ろしつつも、
加勢すべく、さらに走るスピードを上げていく。

「クワァァァッ!」

エクセリオンの巨体がその首を持ち上げ、くちばしに貫かれた狼を投げ捨てる様が、炎の中に見える。
その身体のあちこちから血を流し、激戦の様子が嫌でも判る。
オリオールが森を抜けた瞬間、目の前に一匹の狼が迫る!
咄嗟にブロードソードを振り下ろすが…相手の牙の方が早い、その予感に心で舌打ちする。
ダンッ!!
だが、飛来した矢がその瞳を貫き、狼の動きは封じられた。
ザシャァッ!!
その頭に分厚い剣が打ち込まれ、瞬時に獣は肉塊へと変貌した。

「ロリア!」
「お…オリオール、さん…!」

ロリアは血と泥にまみれ、普段の少女らしい可愛らしさは影も無かった。
肩で息をしながら、それでも瞳だけは炯々と輝き、敵を狙って警戒を解こうとしない。
彼女の周囲には数十にものぼろうかという、狼の死体が転がっていた。

「大丈夫か、ロリア!?」

オリオールは駆け寄り、ロリアの肩を掴んで尋ねる。

「お、狼は!…た、戦わないとッ…!!
 仇を…お母さんの…あいつを…!」
「奴らはもう居ない!」

半ば混乱ぎみのロリアに、オリオールは大声で叫ぶ。
実際、この周囲に狼達の姿は見えなかった。

「奴らは君が倒した、残りは逃げた!
 …戦闘は終わりだ、ロリア!」
「え………?」

その意味を察するに、しばしの時間を要し…ロリアはへたっと、その場に座り込んだ。
瞳には平静の色が戻り、手から弓がこぼれ落ちる。

「よく戦ったな」
「…は、はい…」

ようやく落ち着いてきた…はずのロリアだったが、次の瞬間、目を見開いて叫んだ。

「ふ、ふーちゃん…ふーちゃんは…!?」
「居ない…まさか、孤立させられたか…!?」
「た、助けにいかないと…!」

立ち上がろうとしたロリアだったが、一度萎えてしまった戦意を疲労が上回り、
上手く身体を動かすことすら出来なかった。
オリオールはそんな彼女の肩に手を置き、首を振る。

「大丈夫だ、私が探してくる!君はここで、エクセリオンを守ってやってくれ」
「で、でもっ…!」
「…大丈夫だ!」

強くそう言い残し、オリオールは木の枝が不自然に折れた、森の南側へ踏み入っていく。

(戦闘の音すら聞こえないとは…くそッ!無事でいてくれ!)

焦りと祈りを心に、駆けていくオリオール。

「ふ、ふーちゃん…オリオールさん…」

ロリアは今頃になって…恐怖で、身体を震わせていた。
戦い、狼ども、自分の予想以上の戦力…そのどれに対してでもない。
最愛の友人、フリーテを失うかもしれない。
その事態を招いたのが、戦う事を決めた自分の選択だという事に…震えていた。

「わ、私…私…いやだ…。
 やだよ、ふーちゃん…助けて…助けてっ…!」

全身を襲う悪寒と恐怖に…ロリアはぼろぼろと涙を流す事しか、出来なかった。



「はああっ!!」

ブンッ!!
唸りをあげて振られたブレイドが、空を斬る。
さすらい狼は微妙な間合いを保ちつつ、確実にフリーテを追い詰めていた。
強烈な爪と体当たりに対するハードな防御と、無駄な空振り攻撃の繰り返し。
フリーテは疲労を募らせ、それがまた絶望的な戦力差という現実に拍車をかける。
それでも、彼女は持てる勇気の全てを奮った。

(ここで自分が倒れたら、次はろりあんが狙われる…!
 私が…私が、倒さねば…!)

歯を食いしばって、剣を振り続けた。
しかし…その素早い動きを捉える事は出来ない。
…そして。

ガァン!
無造作に振るわれたブレイドを魔狼がかわし…そのまま、木の幹に衝突した!

「はうっ!?」

手の痺れに、フリーテは剣を取りこぼす!
それを見て、さすらい狼はゆっくり、ゆっくりと近づき…。
まるで、武器は押さえたぞ…と言わんばかりに、ブレイドの上に前足を乗せた。

「くっ!」

きっ、と睨むフリーテだが…これが、最後に残った勇気だった。
圧倒的な戦力差、そして武器をも失った。
目の前の魔狼が、お遊びはここまでだ…と、牙を剥く。
だらり…と涎を垂らしながら、極上の料理を前にするように、歓喜の顔を見せた!

「あ…あ…あ、あ…!」

遂に、恐怖がフリーテを染め上げた。
手が、足が、全身ががくがくと震え…今日まで気丈に『戦士』として戦ってきた彼女は消え失せた。
どこの街にでも居るような『平凡な少女』の、感じるままの恐怖を露にしていた。

「わぁぁぁっ!」

さすらい狼に向かって、盾を投げる!
だが、力ない腕で投げられたそれを獣は避けもせず、身体で受け止める。
地面に落ちる盾から覗いた顔は、最後の抵抗を可笑しそうに、笑って見ているようだった。

「は…あ、あぁぁ…」

フリーテは這うように、その場から逃げ始めた。
殺意に押しつぶされそうで、怖くて涙が止まらず、声も出ない。
震える身体を懸命に、ただこの場から逃げなければ…死んでしまうと、
今、彼女に認識できる現実はそれだけだった。

(殺される!殺される!殺される…!)

完全に背を向けた目の前の獲物の醜態を、魔狼は嬉しげに見ていた。
最後の最後まで抵抗を続け…やがて無力を知り、恐怖に脅える。
そんな人間の魂を、絶望の表情と共に食いちぎるのは格別の味なのだ。
ロリアよりフリーテを狙ったのは…その戦い様を見て、より『墜ちやすそうな』方を選んだのである。
…そして、彼女を失えばロリアの復讐心は益々燃え上がり、その魂への極上の味付けとなる。
人の生命を、魂を無秩序に搾取するのではなく…それを選び、楽しみながら奪おうとする。
見た目こそ巨大な狼だが、これは立派な『悪魔』に他ならなかった。

ドサッ!
逃げるフリーテの身体へ、巨体がのしかかった。

「いや…あ、あぁ…!」

前足で仰向けに転がされ、腕を押さえつけられ…逃げる術は無い。
薄い星明りの下で、ぎらぎらと輝く血色の瞳がフリーテを捉え、その牙が歓喜に震えている。
獣臭と血の混じった息の匂いに、呼吸も苦しさを増していく。
ゆっくりと開かれる口から牙が姿を現し、その隙間から際限なく唾液が流れ出る。
臭気を放つ液体はフリーテの首筋を、頬を汚し、眼鏡の上にどろりと垂れ落ち、彼女の視界を曇らせた。

(…殺される…!)

もうすぐ訪れる確実な『死』を前に、フリーテは突き上げるような恐怖に耐える事しか出来ない。
そして…白く細い首へと、穢れた牙がゆっくりと迫った。

…ズシャッ!!

周囲に広がる、新たな血の匂い。
フリーテは自分の頬に、生暖かい液体が打ち付けられるのを感じる。
不思議と、痛みは無い。
自分がまだ生きているのか、それとも一瞬で絶命してしまったのか、それさえ判らない。
赤黒い液体が、逆さにしたビンの栓を抜いたかのように、噴出すのが見えた。
そして…意識を失いかける、フリーテ。

「…ギャオオオオォォォオオオォォ!!」

だが、この世のものとは思えない叫びが、フリーテの意識を呼び戻した。
頭上からしたたる鮮血!
フリーテは、魔狼の首に突然現れた裂傷を見た。
獣は獲物を喰らう最高の瞬間を邪魔され、怒りと痛みの咆哮を上げる!

「…浅かったか!」

それを見ながら両手剣を構え、向かい合うオリオール。
巨大な狼は必殺の憤怒を瞳に煌かせ、フリーテを無視し、オリオールへと突っかかる!

「ガァァァァッ!」
「くっ!」

ドォン!
オリオールは素早くその体当たりを避ける!
狼が突撃した古木は、その衝撃に耐え切れずに幹からゆっくりと折れ、森をざわめかせる。

「来いッ!」

挑発されるまでもなく、狼は休む間もなくオリオールへ迫る!
持ち上げた上体から、巨大な爪が薙ぎ払われる。
それを剣で難なく防御したオリオールは、次の隙を見逃さなかった。

「うおおッ!!」

ザシュッ!!
突き出されたブロードソードは、狼の首から左肩を鋭く貫く。

「グガァァァ!!」

ダンッ!
前足が同時に突き出され、衝撃と共にオリオールは吹き飛ばされた。
木の幹に打ち付けられ、痛みにうめくも、戦意は途切れさせない。
だが、愛剣は狼の巨躯の中に打ち込まれたまま、その手を離れていた。

「グルルル…!」

その傷跡から流れる血は少なく、左前足は震えてほどんど動かない。
削げ落ちる肉と共に、オリオールの剣がその身体から離れる。
乾いた音を立てて地面に転がったそれを、狼は憎々しげに踏み潰して見せる。

もう一息だ…と思いつつも、オリオールは剣を取られた事に舌打ちする。
腰からマインゴーシュを抜いて構えるが…この刀身では、格闘戦に持ち込まれてしまう。
手負いとは言え、一旦接近戦に持ち込まれた時の狼の戦闘力は馬鹿に出来るものではない。
オリオールはなんとか攻撃を捌きながら、再び剣を奪回しようとチャンスを狙っていた。
しかし…さすらい狼も一瞬の隙も与えまいと、血色の瞳はオリオールを凝視し、
今にも飛び掛ろうとこちらもチャンスを狙っていた。
だが、その時!

ドシュッ!
オリオールを睨む深紅の右目が、突然光を失った。

「ガ、ガァァッ!?」

ドッ!ドドッ!!
目の前の騎士に気を取られすぎた魔狼の右半身へ、次々と矢が突き刺さっていく。

「ロリア!」

ドッ!ドッ!ドンッ!!
木々の間から現れたロリアは、憤怒の表情で次々に矢を放つ!
手持ちの数十本を撃ち尽くし、弓を投げ捨てると…ナイフを手にして、振り掲げながら魔狼に迫る!

「うわぁぁぁっ!!」

オリオールは目を見張った。
…戦いは終わったと、先程まですっかり戦意を萎縮させてしまったはずの少女。
それがまた、鬼神もかくやの闘争本能を剥き出しにしている!
だが…いくら手負いの狼相手であっても、その突撃は無謀以外の何者でもない。

「ロリア、迂闊だぞッ!」

オリオールも弾かれたように走り出す。
魔狼は矢傷に身体を震わせながらも、最後の殺意を振り絞り、ロリアの方へ牙を剥いた。

(間に合うか!?)

オリオールはマインゴーシュを投げ捨て、落ちたブロードソードを素早く拾うと、
既に背中を見せた狼を、渾身の力で薙ぎ払う!

「うおおっ!!」

ドシュゥ!!
鉄塊の強烈な一撃を受け、魔狼の後ろ足が吹き飛んだ。
だが、残る前足を頼みに、ロリアへ対し最後の跳躍を試みる!
しかし…それより早く飛んだのは、ロリアの方だった。

ズシュッ!!
その額に、逆手に持ったナイフが深々と突き刺さる!

「わああぁっ!」

叫びと共に引き抜かれたナイフを、さらにもう一撃!
ズジュッ!!
ザウッ!!
同時にオリオールの剣がその胴体へ、両断する勢いで叩き込まれた。
狼の開いた口は閉じられる事無く、痙攣する身体は既に戦意のカケラも感じさせない。
ロリアがナイフを引き抜く。
と、同時に…狼の瞳から、光が消えた。

…森の中に、静寂が戻る。

「…ふ、ふーちゃん」

ロリアは手にしたナイフを取り落としながら、倒れたままのフリーテへ歩み寄る。

「…ふーちゃん、大丈夫!?」

魔狼の血で、全身を盛大に赤く染めたフリーテであったが…大きな外傷などは無かった。
だが…恐怖とショックからか、起き上がることが出来ない。
ロリアがその上体を支え起こすと、虚ろな目がゆっくりと動く。

「ろ…りあ、ん…」
「良かった…ふーちゃん、無事で…良かった…!」

ロリアはフリーテを抱きしめた。
一番大事な、大切な友人を…自分の判断で、戦いたいという欲求で、失うかもしれない所だった。
ファルセンティアが同じようにして、母を失った…それと同じ事をする所だった。
いや、既に…同じ罪は犯してしまった、と言える。

自分が冒険者として戦えたこと、母の仇である狼を倒したこと…。
そんな『些細』な事より、ただ…親友が無事であった事を、ロリアは涙を流して喜んだ。

(とりあえず、勝てはしたが…。
 ただ勝っただけ…だな、これは)

オリオールは狼の死体を見る。
魔の波動が拡散してしまったそれは、普通の狼と変わらない躯へと変貌していた。
抱き合う二人に向き直る。
フリーテの無事を、泣いて喜ぶロリア。
それとは対照的に…無表情に、どこか呆然としているフリーテ。

(…これからが、大変そうだ)

その様子を見ながら、オリオールは溜息をつかずにはいられなかった。
東の木々の間から、淡い光線が三人へ、雨のように降り注ぐ。
…復讐の夜は終わり、朝が訪れた。





NEXT - "013:Quatto the Merchant"