HyperLolia:InnocentHeart
−叫び−
018:Cry


…刺客のように、フリーテの背後に迫る影。
その動きに真っ先に気付いたのは、オリオールだった。

「フリーテ!後ろだッ!」

叫びながら、眼前のオボンヌを斬り伏せる。
その声に反応しつつも、思うように身体を動かすことの出来ないフリーテは、
表情だけを蒼白に震わせながら、振り向いた。

突然現れた、巨大な姿。
人間よりもふた回りも大きく、全身を鱗で濡らしている。
直立してはいるが、オボンヌよりも、はるかに魚類を連想させる容姿。
生臭い息を吐く巨大な口、視点の読めない濁った白い眼。
手には、潮で錆びた三叉の長槍…トライデントと呼ばれる武器を持っている。
そして、その矛先は既に、フリーテへと向けられていた。

(くっ…一番、恐れていた事が…!)

本来…この、通称『半漁人』は海底洞窟の第四層より下に生息する魔物である。
獰猛かつ高い戦闘能力を持ち、ベテラン冒険者でも複数を相手にすれば、窮地に陥る事もある。
第四層、旧神殿域への入り口には簡単な結界が施されており、通常この半漁人がこれを突破し、
三層より上に現れることは無い。
…だが、無計画に掘り進められてしまったこの階層には、上下階に繋がる隠れた抜け道が存在する。
たまたま、それを発見した半漁人が三層に現れ、油断した冒険者達を蹂躙する…。
まるで事故のような話だが、海底洞窟を知る冒険者には、割と知られている『危険』なのであった。

過去、オリオールは一人で半漁人と対峙し、これを倒した事は何度もある。
それ故に、万が一現れても自分が押さえ込める…という自信があった。
だが、その自信がそもそも過ちであったと、今更ながらに思い知る事になる。

(私が、招いたというのか…この危機を)

戦闘とはそれが終了するまで、常に不確定要素を孕んだ行為である。
たった一瞬の油断や、勝利を確信するような慢心が、時に戦況を覆す事すらある。
窮鼠となった者が予想以上の力を出すのは、珍しい事ではないのだ。
こうしたい、こうあってほしい…というような、想像に応える戦場など存在しない。
オリオールは幾多の戦いを経て、それを良く理解しているはずだった。

だが、ロリア達に強くなって欲しいという思い、そしてフリーテの復活への願い、
彼女らが冒険者…ひいては『仲間』として、強く結束するきっかけになってほしいという期待。
それらがオリオールの選択肢を、より厳しい方へと選ばせてしまった。
一人の冒険者としては成熟している彼だが、惜しむらくは若い冒険者達の育成役としては、
その経験が皆無に等しかった事である。

「ひ…っ」

息を呑み、身体を振るわせるフリーテ。
慌てて逃げる様子も無く…ただ、眼前の恐怖に、竦んだまま。
濡れた三叉槍が、ぎらりと鈍く光った。

「フリーテ…ッ!」

オリオールが振り向こうとしたその足は、動かなかった。
先に斬ったオボンヌが、瀕死になりつつも彼の足に絡み付いて来たからである。
しかも、さらに闇の向こうから二、三匹が迫る気配がある。
なるべく多くの敵の目を向けようと、プロポックまで使って自分へと集中させたのだが、
ここに至り、完全に裏目に出てしまったと言える。

(わ…私は、約束したのだ…彼女を、守る…と!)

オボンヌ相手の戦闘なら何匹相手にしても、オリオールは負ける気もしない。
だが…このまま数に手をこまねいていたら、フリーテの危険は増すばかりだ。
今はただ、戦えなくても逃げてほしい…と、それだけを思って声を枯らす。

「フリーテ!立てッ!逃げろぉッ!!」

だが、フリーテは動かない…いや、動けない。
完全に『恐怖』の虜になってしまったかのような姿。
まるで…死をもって全てから解放されることを、望んでいるかのようにさえ見える。
半漁人の槍が、その脅えた瞳を貫かんとばかりに、高く掲げられる!

(…フリーテッ!!)

オリオールが、声にならない叫びを上げた瞬間。

ドッ!ドンッ!

フリーテは、半漁人の声帯など無いはずの口膣…厚い唇の奥から、悲鳴が漏れたような気がした。
半漁人の頭部に突き刺さる、二本の矢!
その衝撃と同時に、よろける体勢から無造作に突き出される三叉槍。

ガ…ァンッ!!

凄まじい勢いで繰り出された槍は、本来の標的を外してしまう。
狙われたフリーテの頭部を大きく逸れて、彼女の左わき腹を直撃した。
だが、脱力していた事がむしろ幸いだった。
驚異的に力強い突きだったが…変に身構えて防御をしなかった為、
その切っ先が着込んだ鎧を貫通しきる前に、身体ごと吹っ飛ばされたからだ。

「…ふーちゃんを、よくもぉぉ!!」

一陣の風が、岩場を飛ぶように跳ね、体勢を崩した半漁人に迫る。
直前でステップすると、その顔面めがけて…両足で、思いっきり飛び蹴りを決めた!
これにはたまらず、身体を横たえる半漁人。
一方、蹴った方もバランスを崩し、着地の姿勢をとれないままに地面を転がる。

「ロリア…!」

その様子を見ていたオリオールが、驚きの声を上げる。
吹っ飛ばされたフリーテには、クアトが駆け寄っていた。
二人は逆方向から迫っていたオボンヌを手早く片付け、オリオールの叫びに反応したのである。
すなわち、フリーテが危ない…という事態に。

「だ、大丈夫…!?」

倒れ、動かないフリーテを抱き起こすクアト。

「くっ…痛…わ、わたし…?」

どこか、呆然として…恐怖の中で感覚さえ失いつつあったフリーテに、鮮やかな現実感が蘇る。
わき腹に感じる『痛覚』が、彼女の意識を呼び起こしたのだ。
アーマーに開いた三つの穴が、三叉槍を食らった跡をまざまざと残している。
その下に着込んだ、鎖帷子がさらに衝撃を和らげたが…。
やはり切っ先は身体に到達しており、クアトが外した鎧の下に、うっすら血が滲んでいる。

「大丈夫、大丈夫!傷は浅いよ」

そう言いながら、クアトはポケットから携帯用の絆創膏を取り出して、渡す。

「これ、自分で貼れるよね。消毒薬も付いてるタイプだから」
「あ…は、はい…」

フリーテは、どこかまだ夢から醒めたばかりのような感覚に囚われ、状況を整理出来ない。
クアトはそんな彼女の様子まで理解しているのか、まるで安心させるかのように、
にこっと笑顔を作って見せた。

「アイツは、私とロリアで何とかするから!ここから動いちゃダメだよ」
「え…?」

フリーテはその言葉に、驚いた。
目の前のクアトは、それこそ小さな傷や痣の数は、立ち尽くしていただけのフリーテの非ではない。
その笑顔ですら頬に生々しい擦り傷を残し、血を滲ませているのだ。

(何で…逃げないの?何で、戦うの!?怖くないの…?)

ぽん、と肩を叩き…ハンマーを持ち上げたクアトに、フリーテは思わず訊いた。

「く、クアトさんは…怖くないんですかッ!?
 あんな、恐ろしい化け物達と戦うなんて…し、死ぬかもしれないのに…!」

泣きそうな顔でそう言うフリーテを見下ろしながら、何故か照れくさそうに笑う。

「あはー…そりゃ、怖いよ」
「何で…何で、怖いのに…戦えるんですか…!?」

クアトはひとつ息を吐くと…らしくないと言える、凛々しい笑顔で答えた。

「本当に怖いのは、魔物そのものじゃなくて…私は、自分が死んでしまう事が怖い…んだと思う」
「し、死ぬこと…?」
「うん。この世に生まれて、為すべき事を為さずに…。
 自分がしたい事、しなければならない事が沢山あるのに…それを果たさないまま死んでしまう。
 それだけは、絶対に嫌だから」
「為すべき…事…」
「こんな時代だし、生きている間に出来る事なんて、きっとそんなに多くない。
 でもね、生きているからこそ出来ることは、たっくさんあると思う…。
 だから…戦うの!生きる為に!怖がってなんか、いられない!」

フリーテは、感銘を受けると同時に、驚いた。
どこか能天気に見えたこの商人が、ここまで『冒険者』として、
いや…一人の人間として、生と死をしっかりと見詰め、認識している事に。

「私は、ただ生きる為に…自分の為に戦う。
 ロリアは、力を持たない…守るべき誰かの為に、戦うって言ってた。
 フリーテは、どうするの?」
「…わ、私は…」

答えは決まっていたはずなのに…。
何が足りないせいで、身体が拒否してしまったのか…フリーテには判らない。

「…あの世で気付いても、遅いんだからねっ」

そんな辛辣な台詞を、悪戯っぽく笑って残し…クアトは駆け出した。
半漁人と対峙するロリアの加勢をすべく、ハンマーを構えて突っ込んでいく。
恐れを乗り越え、前へと向かっていくその力強い姿。
それはまだ、フリーテにはどこか遠くの存在に感じられるのだった。


ガ、キンッ!

中距離から放ったロリアの矢は、半漁人の身体に到達する前に、叩き落された。
片手で起用に三叉槍を回し、防御の体勢を取られてしまう。
ロリアは全身から、冷たい汗が出てくるのを感じる。

目の前で槍を構えるこの半人半漁の化け物は、ただ本能のままに襲って来る敵とは違う。
攻めに守りにと、巧みに槍を使い分ける手さばきは、まるで熟達した戦士のようだ。
そして何より…自分を追い詰める事を楽しんでいる!
確かな実感として、ロリアは敵の力量が自分を上回る事を認識しつつあった。
…相手の余裕、異様な迫力に自分が焦り、気押されつつある事も。

以前に戦った、さすらい狼もまた『魔族』と呼称される性質の存在であり、
この半漁人も同種の存在だとは、頭では理解できる。
しかし、さすらい狼はその名の通り、見た目は巨大で凶暴な『狼』そのものだった。
だが、この半漁人の容貌は少なからず、ロリアに動揺を与えた。
すなわち…完全な『人型』の魔族という事実が、である。

今までロリアが戦ってきた魔物は、いわゆる動物型や昆虫型がほとんどだった。
ウィローのような、手と足を持って自立する者も居ない訳ではなかったが、
『人型』と言うにはやや無理のある形態の魔物ばかりだったのである。
オボンヌを初めて見た時も衝撃的だったロリアだが、この半漁人はまた別格だった。
…人より巨大な身体、強靭な手と足を持ち、その胴は硬い鱗で固められ、
明らかな殺意を発しながら…槍を巧みに使って、ロリアを襲ってくる。

彼女は本能的に、悟った。

(私じゃ…勝てない!?)

戦闘に順応する、とは何も攻撃だけに限った話ではない。
相手と自分の力量を見計らって、戦略に反映できる事も重要である。
そういう意味では、ロリアは的確に状況把握が出来ていたのだと言える。
…しかし、ここでは悪い意味で『勝ち気』な彼女の戦闘傾向が出てしまった。

「でも…視力を奪えばッ!」

次第に手馴れてきたクロスボウへの矢の装填は、移動しながらでも行なえるほどになっていた。
バックステップで距離を取りながら、半漁人の動きを見逃さない。
槍の攻撃範囲に入らなければ、機動力はこちらの方が上だ。

ヒュンッ!
キンッ!!

連射された矢の一本が、標的を外して闇に吸い込まれて行く。
もう一本は半漁人の胸板に当たったが、硬い鱗に弾き飛ばされた。
この天然の鎧相手に、矢で効果的なダメージを与えるには…急所を狙うしかない。
もしくは、接近して撃ち込む…というロリア的に『得意』な戦法も有効だと思えたが、
予想以上に早く、威力のある槍さばきの前には、飛び込む事自体が至難の業と言えた。

「お待たせッ」

と、その側にクアトが跳ねるようにして現れた。
戦意まんまんの顔は、血や泥で薄汚れている。
多分、自分も同じような顔をしているんだろう…と、ロリアは何となく思った。

「ふーちゃんは?」
「大丈夫…意識はハッキリしてるし、オリオールさんもフォローに回ってくれてる」

遠く、オボンヌを捌きながらフリーテへと近づこうとするオリオールの姿があった。
座り込んだままのフリーテも、不安げな顔でこちらを見ているが…先の呆然とした状態よりは、
多少現実感を取り戻しているようだった。
ロリアとクアトはその様子を見届け、改めて半漁人に対峙する。

「あの敵…鱗が硬すぎて、ちょっとやそっとの攻撃じゃ歯が立たない…!」
「ハンマーでぶっ叩き続けるのもいいけど、先にこっちが疲れちゃいそうだし。
 こんな事なら、風のマインゴーシュ置いてくるんじゃなかったよ」

まるで退く事を考えない二人の会話は、どこか楽しげにさえ聞こえる。
ロリアはここで負ける、などという事は思いもしなかった。
初心者修練場、さすらい狼…どんなに苦しい戦いでも、土壇場で勝利を拾ってきた。
絶対に諦めなければ、勝機は開けるものだとロリアは信じていた。
もっとも…それは確信と言うより思い込みに近い、彼女の弱気や不安から生み出される期待感であり、
本人自身がそうだと気付かない以上、賭けるにはやや危険な思考だと言えるだろう。

「どっちみち、接近しなきゃまともに攻撃も出来ないけど…あの槍が厄介だしねぇ」
「…じゃ、先に槍を何とかしますか!」
「それしか無いかも!」

二人、頷いて手にした得物を構え直す。
半漁人はまるで、どちらを先に血祭りに上げるか吟味するかのように…ゆっくりと迫っていた。

「槍の攻撃範囲ギリギリでチャンスを見つけるから、援護お願いね」
「了解です!槍を無効化した瞬間に飛び込んで、二人がかりで接近戦に持ち込みましょう」
「いくよぉっ!」

ロリアが構えたクロスボウから、矢を放つ。
それに追いすがるかのように、低く飛び出し、突っ込んで行くクアト!
だが、半漁人には慌てる様子すら無い。
ロリアの放った矢は、ある程度の遠距離からでは効果が無いと知られていた。
ましてや、援護の為に精密な照準も付けずに放ったものである。
そこまで読まれていたのかは判らないが…ともかく、半漁人は矢を避けもせず、身体で弾いてしまった。
槍の標的はクアトに定められ、二人が予測したよりも早く襲い掛かる。

「…くっ!!」

クアトは慌ててバックラーを前に出し、精一杯の防御の構えをする…が。

ガアァァァンッ!!

凄まじい衝撃に、小柄な身体が吹っ飛びそうになるのを、必死に堪える。
足元は自然と後退させられ、盾を持つ左手はびりびりと痺れが激しい。
だが…ここで踏ん張らねば、とクアトは退くことなく、半漁人と対峙する!

ズガッ、ガ、ガァンッ!!

しかし…半漁人の激しい連続突きに防戦一方のまま、槍を封じる機会などまったく見えなかった。
ロリアの援護も距離をおいては役に立たず、こう乱戦に持ち込まれると誤射を恐れ、積極的に撃てない。
…そして、半漁人は二人と一直線上に常に位置し、援護を潰そうとする意図が見えていたのだ。

「…見透かされてるというの!?」

ロリアは焦った。
槍を何とかしよう…という作戦が、必要以上にクアトの苦戦を招いてしまった事もあり、
自分が現状打破の為に動かねば…と、それだけで頭がいっぱいになりつつあった。

(クアトさんと逆方向から、近接戦を仕掛けるしか…!)

防戦一方のクアトを、一旦退かせて…別の方策を講じるべきだ。
そう思い、足が前に出かけた瞬間。

ガッ…バキャッ!!

何かが砕けるような不快な音に、思わずロリアの足が止まる。
それはクアトのバックラーがこの戦いの中、度重なった衝撃に…遂に耐え切れなくなった悲鳴だった。
盾の下半分を破壊しながら三叉槍は貫通し、その先端はクアトの足に深々と突き刺さっていた。
歯を食いしばり、苦悶の表情で激痛に耐えるクアト。

「クアトさんッ!!」

たまらず、ロリアは駆け出した。
半漁人はそれでも目標をクアトに定めたまま、ダメージを与えた獲物に追い討ちをかけるべく、
また得物を構えなおそうとする…が。

槍は、動かない。
クアトが遂に『動きを止めた』その武器を、両手で掴んでいたからだ。
一撃を受けてまで見出したチャンスを逃す訳にはいかない、とばかりに…必死にしがみ付く。

「…ぅ、わっ!!」

だが、体躯の違いもあり、腕力勝負でクアトが敵うはずもなかった。
ぶんっ!と力任せに振り上げられた槍と一緒に、彼女の身体までもが宙に浮かぶ。
その衝撃で、突き刺さった大腿部から槍が抜け、真っ赤な鮮血が弧を描いた。
…それでも、クアトは手を離そうとしない!
忌々しげに身体を揺らした半漁人は、この邪魔な物体を引き剥がすべく、槍を無茶苦茶に振りまくる!
遂には、石柱に向かって思いっきり叩きつけるという行動に出た。

ド…ッ!

「ぅ…く…」

見た目よりタフな彼女も、さすがにこの衝撃には耐えられなかった。
全身を襲った鈍痛に、たまらず意識を失い、石柱の下へと倒れこむ。
しかし、それでも槍はバックラーを貫いた穴に引っかかり、外れない!
そして…クアトの奮戦は、決して無駄では無かった。

ダ、ダンッ!!

まったく警戒されないまま、至近距離まで近づいていたロリア。
放たれた矢は、槍を握った半漁人の手の甲へと突き刺さる。
距離に加えて、鱗の薄い部分であり、ほぼ貫通するほどの衝撃が襲った。
たまらず、手を離してしまった隙に…ロリアは三叉槍を思いっきり蹴り上げる!
危険な武器は遂に魔族から離れ、弧を描いて飛び…倒れているクアトの側に、転がり落ちた。

「…こ、のぉッ!!」

ロリアの攻撃は止まらない。
目の前で、クアトをあんなふうに痛めつけられた…それに対する怒りが、身体を突き動かす。
槍を奪われ、少なからず動揺の色が見える半漁人に、反撃の態勢は整っていなかった。
しかしロリアにも、矢を装填するような余裕は無い。
手にしたクロスボウを両手で握り締め、まるで鈍器のように構えると…そのまま横薙ぎに振りぬいた。

バキィッ!!

半漁人の頭部にクリーンヒットした弩は、その激しい衝撃に手を離れてしまう。
だが、地面に転がるそれを気にもせず、ロリアは腰のナイフを抜いた。
身体の内から湧き出る力につき動かされるがまま…攻撃衝動を止める事が出来ない。
苦し紛れに突き出された腕を軽く避け、そのステップを助走代わりに跳躍した!

ザシュッ!!

激しい音と共に、真っ黒い液体が勢い良く噴出す!
あるいは人と同じ、赤い色だったのかもしれないが、灯りの乏しい地下洞窟では漆黒に見えた。
逆手に持ったロリアのナイフが、半漁人の巨大な右目に深々と突き刺さる。
だが、反撃に窮すると思われた化け物は…血濡れた腕の猛烈な力で、彼女の左手首をわし掴んだ。

「!?」

ダメージを負って怯むどころか、むき出しの殺意をますます高まらせる半漁人。
ロリアは掴まれて動かせない左手に握ったナイフを、持ち替える為に引き抜こうとする。
だが、その時。

バキンッ!

ナイフの柄から、刃先が折れた!
元々、初心者訓練場で支給された、決して精度が良いとは言えない代物である。
繰り返しの激しい戦いの中で、既に耐久度の限界を迎えてしまっていたのだ。

「しまっ…!」

ドザーーーッ!!

ロリアが思わず出した声は、途中で激痛と共にかき消された。
半漁人が、彼女を自分から引き剥がし、力任せに地面に叩き付けたのである。

「…かっ…は…」

痛みというより、全身へのあまりの衝撃に息すら止められたようで、声も出せない。
震える手から、柄だけになってしまったナイフが滑り落ちる。

(は、反撃…ぶ…武器、を…!)

それでも、戦うことを忘れなかったロリアだったが…身体はまったく、言うことを聞かない。
腹ただしいくらいに、定まらない視点。
だが、それは意思とは関係なく、またぐるりと視界を回す。

ズジャァッ!!

再び、まるで人形を振り回す子供のように、半漁人はロリアを引き回す。
そして、躊躇無く石柱へと、その身を叩き付けた。

「がっ…!」

無造作なその『攻撃』に、頭を打たなかったのは、あるいは幸いだったかもしれない。
だが、背中に強い衝撃を食らい、ロリアは全身がショック状態に陥ったようだった。
四肢の全てに、力が入らない。
がくがくと震えるばかりの手や足に、心までが痺れてしまいそうになる。

左目…もとい、頭部からの出血も収まってきた半漁人は、片手でゆっくりとロリアを掲げ上げた。
この憎い『敵』を、どう痛ぶれば、傷を癒すことが出来るのか。
人間ごときが、調子に乗って『魔族』である自分を傷つけた報いを、どうすれば…。
そんな憎しみを込めた、色の無い片目が、じっと無防備なロリアを見詰める。

ドカッ!
「う…ぐっ!」

半漁人は空いた右腕で、ロリアの腹部を殴りつけた。
こうも無防備な所へ化け物の力まかせの一撃を食らい、無反応でいられるはずがない。
鳩尾を締め付けるような痛みに、ロリアはぼろぼろと涙を流した。
痛覚ははっきりしているのに、身体が言うことを聞かない。
半漁人としては、この弱った人間の反応を見るがための一撃だった。
それが、無抵抗のまま泣き出す…という意外な表情を引き出せたことに、どす黒い喜びが広がる。

ドカッ!!
「ひっ…ぃ…」

一撃ごとに、どんな悲鳴を上げるのか。
半漁人は愉悦に浸りながら、ゆっくりとこの人間を殺そうと決めた。
最後は、自分と同じように…左目を抉り、その叫びの中…殺すのだ、と。


…一部始終を、フリーテは見ていた。
見ているだけ、だった。

強大な化け物に、果敢に立ち向かう二人を。
投げ飛ばされ、動かなくなったクアトを。
そして今、引き回され、打ち付けられ、無抵抗なままに痛ぶられるロリアを。

オリオールは依然、多量のオボンヌに囲まれ、両者の戦場は離れつつあった。
ロリアが絶対絶命のこの危機に、助けられる者は…誰も、居ない。

「ろりあん、が…」

誰に向けての言葉だったのだろうか?
フリーテは無意識に、口を開いていた。

「ろりあんが、死んじゃう」

小さく震える唇から、小さな声が漏れる。
それは、フリーテの放つ、フリーテにしか聞こえない声。
…その囁きで、思い出した。
かつて、戦火に両親を無くし…ただ、心を閉ざして塞ぎ込むだけだった頃。
自分の心の中に、いつも小さく響く声があった事を。

(ねえ、いつまで真っ暗な所で、ひとりでいるの?)
(外に出てみようよ…なんだか、楽しい声が聞こえてくるよ…)

自分を立ち上がらせようと、親身に励まし、必死に鼓舞しようとしたあの声。
限りなく優しく、強く、前向きなその言は…まるで、自分とは正反対に思えた。
目を覚まして、ロリアの笑顔に出会った時、初めて気付いたのだ。
…その囁きの主が、自分自身だった事を。

「助けなきゃ…ろりあんを、助けなきゃ…」

(無理です…オリオールさんも、クアトさんも…もう、間に合わない…)

「誰かが…助けなきゃ…」

(無理…)

「…ろりあんが、死んじゃうのに…私はどうして、生き延びようとしているの…?」

(…!…)

心の中の、本当のフリーテは…もう、全て判っていた。
クアトの言った言葉が、鮮やかに脳裏に蘇る。

(うん。この世に生まれて、為すべき事を為さずに…。
 自分がしたい事、しなければならない事が沢山あるのに…それを果たさないまま死んでしまう。
 それだけは、絶対に嫌)

今、自分が為すべきこと、しなければならない事、その為に自分が在る事…。
この世で一番大切な人が…目の前で死の危機に晒されて。
フリーテはようやく、最も大切な事に気付いたのだ。
いや…恐怖と疑心で閉ざされていた思いを、やっと取り戻した…と言うべきかもしれない。

(フリーテ…どんなに弱くても、惨めでも、情けない戦い様でも…誰も君を嘲笑などしない。
 結果、ロリアを守ることができれば…それは常に、君にとっての勝利なのだ)

「そう…ですよね、オリオールさん…。
 ばかですね、私…」

悔恨の涙が一滴、白い頬をゆっくりと滑っていった。


「…あ、ぁ…」

何度も何度も拳を食らい、痣だらけの身体は見るも無残な有様だった。
ロリアは、漠然と…自分はもうすぐ死ぬのだ、と思った。
今まで何度も危機に陥った事はあったが、最後は必ず勝利を収めてきた身である。
それ故に、自分は『敗北』したんだと…理解できるだけの思考力は、まだ残されていた。

しかし、これはゲームではない。
勝った負けたで一喜一憂して終わる、そんな甘い世界ではないのだ。
ロリアが今まで勝利してきた…という事は、数多の魔物たちを『殺してきた』と同義なのだ。
今更…そう、今更ながらに、敗北したという現実の中で、ロリアはその事に気付く。
自分の時だけ、特例などは無いという事に。

不思議と、恐怖は感じなかった。
冒険者として精一杯戦った末の結果なら、仕方が無いのかもしれない…とさえ思える。

(クアトさんはもしかしたら、もう…。
 オリオールさん…戦う音が聞こえない…あなたも…?
 そうだよね、二人共居ないのに自分だけ無事なんて…おかしいもの、不自然すぎるもの)

半ば達観、半ば諦め…もう動かない身体は、半漁人に止めを刺されるのを待つばかりだった。
だが、それでも…心の中のどこかで、小さく囁く声がする。

それは…最後まで信じたい、一番大事な友人を呼ぶ声。
しかし、ロリアはそれを口にしてしまう事に、躊躇いがあった。
もし…『彼女』が何も応えてくれなかったら、自分は死と同時に、親友との絆まで失う事になる…と。
せめて、死してからも…たとえ自分がそう思っているだけでも、親友であって欲しいから。
彼女はもう充分すぎるほどに、戦いの恐怖に耐えて来た。自分の我侭な旅に、付き合い続けてくれた…。
酷い目に遭わせ続けた張本人である自分が、これ以上何を望む事ができるだろう…?

半漁人の顔は、まるで笑っているかのように歪んで見えた。
視界すらぼやけてしまっているのだろう。
そして…その瞳に、鱗を纏った巨大な掌が迫る。
ロリアの左眼を抉り取り、断末魔の叫びを上げさせる為に。

直感的に、ロリアは気付いた。
遂に、自分は殺されるのだと。
避けることの出来ない死が、もう間近に迫っているのだ…と。
そう思うだけで、心まで竦み、頭の中が真っ白になっていくようだった。

…その中で。
堪えきれない思いが、思考の空白を濁流のように駆け巡って行く。
死の淵にあっても、秘めようとした心の叫び。
今まさに、この瞬間にあって、それはロリアの中から殆ど無意識に飛び出した。
最後の最後には…一番信頼し、一番大好きな友達が、自分を守ってくれると言った彼女が、
必ず来てくれると。

ロリアは、心の奥底で…信じていた。



「ふーちゃん…助けてぇっ!」



もう動かせないと思っていた口が、叫んだ。
同じように…もう戦えないと思っていた彼女の身体は、疾風のように駆けた。

ズシャァアァアアァアァアッ!!

一足飛びから、両手で渾身の力を込めて振り下ろされた剣。
風の精霊力を纏った一閃は、緑色の光で残像を描き、剣激の軌跡を残す。
まったく予期していなかった攻撃に、半漁人が防御できる訳も無かった。

ド、サッ!

ロリアの左腕を掴み、高々と掲げていた鱗だらけの腕。
その、肘から先が、ロリアの身体とともに地面に崩れ落ちた。

突然の事態に、動揺を隠せない半漁人。
武器も無く、身を守ろうにも片腕を失い、明らかな狼狽を見せる。
そこに追い討ちのように、再び緑色の光が薙ぎ払われる!
間一髪、身を引いて避けようとしたものの…鋭い剣先は、化け物の胸板を切りつけた。
ロリアの矢を弾いた鱗が、ベキベキと音を立てて飛び散って行く。
水棲の魔物に対する、風属性の武具の威力は格別だった。

「殺すなら…っ」

震える身体を、必死に起こそうとするロリアを守るかのように、
半漁人の前に立ちはだかる姿。

「私を…殺しなさいッ!」

恐怖に震えていた表情は、もう無い。
目の前の魔物にまったく臆せず、静かに怒れる瞳で、剣を構える。

「あ…ぁ…!」

ロリアの瞳から、ぼろぼろと涙が零れた。
様々な思いが交錯して、湧き上る気持ちに自分でも戸惑う。
ただ…自分の一番の親友は、信じた通りの『彼女』だったという事が、果てしなく嬉しかった。

「…ふーちゃん…ふーちゃん…!」

何かを言おうにも、名前を呼ぶことしか出来ない。
それでも、全てが伝わっていた。
振り返り、ゆっくりと頷くその眼鏡の下には、凛とした瞳の強さがあった。

「遅れて、ごめんなさい…これ以上は、やらせませんッ!」

突然現れ、獲物を仕留める最高の瞬間を邪魔され、あげく左腕を切り落とされ…。
半漁人は、猛り狂いそうになっていた。
ことごとく小賢しい人間達に、憎悪が溢れんばかりに体内に満ちるのを感じる。
目の前に現れたこの剣士を、八つ裂きにしたい衝動に駆られる。
その猛りを現すかのように、失った左眼から鮮血が火山のように噴き出した。

身を引いた化け物は、倒れたクアトの側に迫っていた。
フリーテは彼女の身を案じ、なんとか引き離さなくては…と思うが、
ここは半漁人の動きのほうが早かった。

化け物の狙いはクアトではなく、武器だった。
転がっている三叉槍を拾うと、ぶんっ!と片手で器用に回して見せる。
その勢い、迫力は片手片目を失ったハンデなど感じさせないものがある。
槍を回した衝撃で、先端に絡んでいたクアトのバックラーが外れ、フリーテの足元に転がった。
彼女はそれを拾い、素早く左腕に装着する。
フリーテは盾と片手剣…というスタイルが元々の戦い方だ。
ロリアの危機に飛び出した時に置いて来てしまった、自分の盾を取りに行く隙は無い。

ドオッ!

半漁人は怒りのままに、フリーテ目掛けて突っ込んでくる!
受ける彼女も、ロリアを巻き込まんが為、自ら前に出た!

ギィンッ!!

突き出された槍と、それを受けた剣が、激しい火花を散らす。
さすがに片腕を失った半漁人は、動きのバランスが悪い。
それを見逃さないフリーテは、隙を狙って素早い突きを繰り出す!

ドシュッ!

左肩に剣先が突き刺さり、また黒い鮮血があふれ出る。
半漁人はヨタヨタと怯みながらも、槍をフリーテに向け、戦意を衰えさせる様子は無い。
…事ここに及んで、彼女はようやく、ロリアの気持ちを完全に理解した思いだった。
すなわち、『誰かの為に、命を賭す』という事の意味を。
身近な人を…大好きな人を失いそうになる事で、ようやく気付いたのだ。

(そんな苦しみや悲しみを目の当たりにして…自分だけが生き残るなんて、嫌!
 だったら、私は…その為に、死んでしまってもいい!私が、死ぬべきなんだ…!
 その代わり…ろりあんを、大切な人を、絶対に…守る!)

フリーテにとっては、今はロリアの事だけ、かも知れない。
だが…ロリアはこの世界が、自分の周囲の人々が本当に好きな、純粋に人を愛せる少女なのだ。
そんな彼女なら、あらゆる誰かを守りたい…という気になるのも、今なら当然とさえ思える。
母親という大切な家族を失うことは、ロリアにとって唐突で、衝撃的だったとは理解していた。
しかし、その喪失から生まれた決意は、フリーテが想像するより遥かに大きな物だったのだ。
ようやく…今この瞬間、彼女はあの冒険者になる事を決意した日のロリアと、同じ場所に立ったと言える。

(自分の好きな人達の、未来の為に…その為に賭ける命なら、惜しく無い!
 それは、私の戦いが明日という…人々の希望を作っていく事、そのものなのだからっ!)

炯々と輝く魔族の眼光にも、もう身体は震えない。
戦いの、死の先にあるものに気付いたフリーテは、完全に恐れを払拭していた。

キィンッ!

激しく打ち合う、フリーテの剣と半漁人の三叉槍。
いくら戦意を取り戻したと言っても、それで戦闘技術が向上する訳ではない。
未だ我流の癖が抜けないフリーテだが、それを補って余りある気迫が力となっている。
半漁人も槍を取り戻したが、片目片腕を失い、戦力は大幅に落ちている。
その上で、二人の打ち合いはほぼ互角と言って良かった。

(フリーテ…あんな風に、戦えるのか…!)

オボンヌの群れを切り伏せながら、オリオールは離れた場所での戦いに目を見張った。
惨めに震え、脅えるだけの少女はもう居ない。
戦う事に意義を見出した、紛れも無い本物の『剣士』の姿があった。

打ち合いは何度も続いたが、決勝点は見えなかった。
フリーテの剣に対して三叉槍のリーチは絶対的で、避けながらの攻撃は難しかった。
隙をついて飛び込んでも、攻撃範囲の開かれた距離を一瞬で詰める事は出来ない。
結果、ダメージを与えている分フリーテが優勢とは言え、確実な勝機は見出せないままだった。

(やはり…この槍が、厄介…!)

フリーテは、ちらとロリアの方を見た。
泥だらけ、痣だらけの酷い姿で、それでも心配そうな顔でこちらを見ている。
…クアトの方を見る。
石柱に叩き付けられてから、ぴくりとも動かない。
その足の部分に出来ている血だまりが、傷の深さを物語る。
二人を早く安全圏に連れていかなければ、またオボンヌの群れが来る可能性もある…。

(これ以上、時間をかける訳にはいかない!)

フリーテは勝負に出る、と決めた。
相手に確実なダメージを与える為には、どうすればいいか…?
剣を構えなおし、敵の動きを注視する。

そんな、フリーテの静の動きを脅えと見たのか。
半漁人は槍を腰高に構え、素早い動きで突進して来る!
この巨躯の力で貫かれれば、間違いなく即死の威力を持った突撃。
しかし、これこそフリーテの待っていた相手の反応だった。

ザッ!

突然の動きに、半漁人も、その様子を見ていたロリアも、目を疑った。
フリーテは退きも避けもせず…自分も同じように、半漁人に向かって突撃したからである!
両者の距離は一瞬で詰められ、判断の遅れた化け物より、フリーテの動きが早かった。
クアトのバックラーごと、その腕を自ら槍にぶつける!
衝撃で、ついに粉々になってしまう盾。
その逆方向からの反動に、突き出そうとした半漁人の槍の動きが遅れる。
フリーテの心臓を狙うはずだった照準は大きく外され、その先端はバックラーの破片に飛び込む。
留め金を破壊されたガントレットの装甲が歪み、弾ける感触。
それでもフリーテは、その視線を目指す標的へと、まっすぐ狙いを付けていた。

ドォオォォンッ!!

二つの影が、激突する。
そのあまりの速さに、ロリアは一瞬、状況が判らなかった。
高く、天を突くように掲げられた三叉槍。
その穂先に捉えられた姿は無く、フリーテは半漁人の懐へと、飛び込んでいた。
そして、手にした剣は柄まで深々と刺さり…化け物の喉から脳へと、貫通していた。

「ふ、ふーちゃんっ…!」

ロリアが叫ぶが、フリーテは息を切らせて…そちらを向くことも出来ない。

(いくら魔物とは言え、急所をこうも貫けば、致命傷のはず…!)

そう思いながらも、未だ倒れない半漁人に油断できないフリーテ。
次の瞬間、鱗だらけのその手から、がらん…と音を立てて、槍が転がった。

「やっ…た…?」

フリーテが、思わず呟いた時。

ガツッ!!

その巨大な掌が、フリーテの肩へ掴みかかった!

「うぁ…っ!!」

肩を砕かんとする、異様なまでの怪力。
だが、フリーテは覚悟を決めていた。
これが最後の、力比べなのだ…と。

(これに耐えたら…私の、勝ちッ…!)

ミシミシと、自分の肩の骨が、嫌な音を立てるのが聞こえる。
鎖帷子ごと、いつ千切られてしまってもおかしくないとさえ思える圧力。
フリーテは握った剣の、上向いた刃先を迫り上げるように…全力の力を込めた。
巨大な口に通じる喉が切り裂かれ、ゴボゴボと血が噴出し始める。
フリーテは精神を集中し、剣先へ力を注ぐイメージを描く。

「もう、終わりにしましょう…っ!」

その言葉と共に、剣が風の精霊力…緑の光と共に、白く発光を始める。
使い手の精神力を注入し、一撃必殺の剣圧を叩き込む…『バッシュ』と呼ばれる剣技。

「はぁぁぁぁぁッ!!」

フリーテの全力を持って振り上げられた剣は…貫かれた喉から裂かれ、半漁人の頭部を完全に両断した。
同時に、肩を破壊しようとしていた腕の力も抜けていく。
一歩、バックステップで距離を開けつつ…フリーテは剣の構えを崩さない。
裂けた頭部はブルブルと震え、壮絶なまでに血が噴出し、彼女の髪や顔を赤黒く染めていく。
そして…まるで迷子のように、ニ、三歩、よろよろと後ずさり…。

ズゥゥゥゥゥン!

半漁人は、遂にその巨大な身体を横たえた。
時折、足を震わせるが…もう、起き上がる様子は微塵も見えなかった。

(…倒し…た…)

フリーテはまだ鈍い痛みの残る肩を抑えながら、息を切らせて、敵の姿を見下ろしていた。
こんな巨大で、恐ろしい魔物と自分は戦っていたのか…などと、何故か客観的な視点で思ってしまう。
しかし、これは全て現実だと、フリーテはしっかり認識していた。
そして…以前のような恐怖や脅えは、もう…どこを探しても見つからない。
今はただ…ロリアが自分を必要としてくれた事。
それに応えるべく、彼女を守れた事。
それが『剣士』としての充足感となって、静かにフリーテの心を満たして行くのだった。

「ふーちゃん…!」

ロリアが、よろよろとした足取りで、フリーテへと近づく。
フリーテは慌てて駆け寄ると、手にした剣も落として、その身体を抱きしめた。

「…ごめんなさい…私がもっと早く、勇気を出していれば…!
 ろりあんを、こんな酷い目には…!」
「ううん、そんな事無いよ…。
 えへへ…やっぱり、最後に私を助けてくれるのは…ふーちゃんだね…」

互いの体温が、触れた身体を通じて感じる心臓の鼓動が、何より嬉しかった。

「…終わったようだ、な」

そこへ、一人オボンヌの大群をひきつけていたオリオールも凱旋した。
孤独で壮絶な戦いの跡を身体中に残し、こちらも酷い有様であった。

「だ…大丈夫ですか、オリオールさん!?」
「心配ない…少々疲れたが、傷はみな浅いものばかりだ。
 それより、君達が無事で良かった」
「はい、ふーちゃんが…私を守ってくれたから…」

涙ながらにそう言うロリアに、オリオールは頷く。

「すまない…本来は、私が君らを守らなければならなかった。
 私の力不足で、辛い目に合わせてしまった…」
「それを言うなら、このパーティのリーダーである私に、責任があります。
 …あまり、自分を責めないでください…」
「だが…」

オリオールは沈痛な面持ちで、視線を向ける。
そこには、倒れたまま…動かないクアトの姿があった。

「く、クアトさんっ…!」

慌てて、駆け出そうとし…転びそうになるロリアをフリーテが支え、三人は急ぐ。
うつ伏せの身体をフリーテが起こす。
血の気のない顔は、最悪の事態を想起させるに十分なものだった。

「クアトさんっ!起きて!目を覚まして…死なないでえっ!!」

ロリアが悲痛な声を上げ、胸元を掴んでがくがくと揺さぶった。
…と、ゆっくりと動いた手が、その行為を止めさせようと、弱々しく振られる。

「あー…か、勝手に殺さないでよぉ…うぁ、頭痛い…」
「クアトさん…!」
「良かった…」

クアトが無事で、意識がある事に、一同に安堵の空気が広がった。
だが、その顔は真っ青で、いつもの元気な彼女からは想像もできない苦しげな表情を見せる。

「…あいつ…は?」
「大丈夫、ふーちゃんが止めを刺してくれたよ」
「そか…ちぇ、イイとこ持っ…てかれ、ちゃった…な…」
「いかんな、出血量が多すぎる…早急な手当てが必要だ」
「今、またオボンヌに襲われたら危険です…姿が見えないうちに」

フリーテとオリオールは頷いて、ロリアを見る。
リーダーに委ねられた選択肢、だが…一行の考えは、一致していた。

「…撤収、しましょう!」

応急処置を施したクアトを、オリオールが背に負ぶう。
薬を飲まされた彼女は、そのまま意識を失い、眠ってしまった。
フリーテが各人の落とした装備と、手近な収集品をかき集め、クアトのカートに突っ込む。
そのカートの繋がれたエクセリオンの背には、ロリアが腰を下ろした。
彼女も疲労の蓄積で、ぐったりとしたまま口数も少なくなり…やがて、眠ってしまったようだった。

「よし、急ごう」
「はいっ」

オリオールが先頭、エクセリオンの手綱を曳いたフリーテが後に続く。

「フリーテ」

…と、オリオールは首だけ振り返って、その名を呼んだ。

「はい?」
「…すまない」

短くそれだけ呟くように言うと、足早に歩き出す。
フリーテには、その言葉の意味が良く判らなかった。


ルーンミッドガッツ王国首都、プロンテラ。
その王城に本陣を構える、王国親衛隊
王に仕える騎士の中でも精鋭たる、第一親衛隊『アルビオン』の本部となっている一室。
上品な飾具に囲まれた部屋で、一人の男が静かに『報告』を聞いていた。

親衛隊長の紋様が描かれた黒衣を纏ったその体躯は、騎士として申し分ない力強さに溢れている。
銀の長髪を後ろで結び、険しい顔に刻まれた傷と皺は、彼を実年齢よりも老いているように見せた。
しかし…その背後に立ててある、鞘に納まった巨大な斬魔刀は、この男の強さを雄弁に物語っていた。
…王国軍第一親衛隊長、ディオー・シュトラウト大佐、その人である。

報告をしている若き騎士…リブラ少尉も、副官として長いとは言え、
彼と二人っきりという場では、未だに緊張感を覚えざるを得ない。
ディオーはそのくらい厳格にして剛健、そしてどこか陰のある…そんな人物であった。

「…つまり、消失したも同じという訳、か」
「はっ…モロクのローゼンベルグ氏の手に渡った、という所までは突き止めたのですが…。
 先日火事騒ぎがありまして、その間に失われたとか…。
 あるいは、氏が紋章に価値を見出して隠蔽している可能性も…」
「あの『都落ち』に、そんな鑑識眼は無い。
 無論、誰かが入れ知恵したというのも、あり得ない話ではないが…。
 それに、またどこぞの冒険者が嗅ぎまわっているのだろう?」
「はい…テミスという名の女騎士と、同行のプリーストの二名が…」
「ふん、『蒼の騎士』か…『銀の悪魔』といい、どうにも大物が絡みすぎだな。
 後ろで手を引いている奴に関する情報は?」
「トリエ中尉の指揮で調査中ですが、冒険者ギルドを介せずに、というのはやはり難しく…」
「まぁ良い…監視だけは付けておけ。
 いずれにせよ、連中の探索でハッキリしてくれるだろうよ。
 アレが失われたのか、それとも誰かが所持しているか、がな…。
 それから動いても、問題はあるまいよ」

ディオーは肩をすくめながら、テーブルから紅茶のカップを手に取る。
そして、片手を話の続きを促すように振った。

「はい、続いて…例の『アズライト』の娘に関してですが…」
「うむ、それを聞きたかったのだ…海底洞窟での仕掛けは、どうなった?」
「はッ…ご命令どおりに騎士二名を派遣し、彼女らを乱戦に持ち込むよう計らいました。
 半漁人の誘導も、上手くいったようです。以後の消息は未だ不明ですが…」
「フフ、戻ってくるさ。
 それくらいの苦境、乗り越えてくれなければ…ロンテの末裔として、話にならん」

(…それに、かの娘には『椋鳥』が付いているのだしな)

至極、厳しげな表情…ディオーはいつもこのような顔なのだが…は、
ここに来て、初めて微笑を浮かべた。
リブラはその珍しさに、驚きつつも平静を保つのに必死である。

「…連中がイズルードに帰還したら、タイミングを見計らって仕掛けてみるか。
 奴らのうちの一人は、こちらの事を知っている…この際、多少派手にやっても構わんだろう。
 ロリアーリュとかいう娘が、確かにアズライト・フォーチュンに選ばれた者だと、確認する必要がある」

その言に、リブラは不思議な違和感を感じた。
…ロリアーリュがアズライト・フォーチュンなる紋章を所持し、選ばれた者だからこそ、
現在もこうして仕掛けや追跡を行なっているのではないのか…と。
ディオーの台詞だと…まるでロリアは、選ばれし者の『候補』のようにも聞こえる。

「了解しました…実行部隊は、誰に任せますか?」
「そうだな、私が直接出向くのも一興だが…」

少し考える仕草をした後、ディオーは指を鳴らした。

「そうだ、出向中の大尉がもうすぐ戻ってくるな?奴にやらせろ。
 あの娘とアズライトに関する報告を、初めてもたらしたのは奴だしな…。
 少尉、お前も同行して便宜を図れ…指示書は追って出す。以上だ」
「…了解です」

と…全ての報告を終え、退出するばかりだったリブラは、立ち尽くしたままだった。
何か言いたげな彼女に、ディオーは不可思議な視線を向ける。

「何だ、少尉?まだ話があるのか?」
「はッ、お許し頂ければ…お聞きしたいことが」
「言ってみろ」

リブラは一礼すると、口を開いた。

「私は、この『紋章狩り』が、現王の治世を守る為の任務と聞きました。
 聖戦より千年の折り、世界の終末思想を加速させかねない要因のひとつ…それが古の『紋章』の存在。
 伝説の騎士団や英雄の子孫を騙り…民衆を煽って混乱を招く『賊軍』の出現を促しかねないもので、
 これはその元凶を絶つ為の任務だと…」
「その通りだ、少尉」
「ですが、今回の…その『アズライト・フォーチュン』と所持者への対応は、
 本来の目的から、逸脱し過ぎているような気がします。
 駆け出し冒険者の成長記録など、監視する必要があると思えません。
 早急に紋章を奪ってしまえば、事は簡単だと思うのですが…?」
「ほう…なるほど、な」

ディオーは部下の言を、もっともらしく頷きながら聞き、そして答えた。

「少尉…ならば、奪取してみるがいい。
 その為の装備と人員は、お前の要求を通す。
 大尉にもお前の作戦に従うよう、私から言っておいてもいい」
「え…!?」

予想もしなかった展開に、リブラは面食らった。
だが、ディオーの顔に冗談の色は無い。

「もし…奪う事が出来たのなら、確かにそれに越したことは無いだろう?
 今まで、我々が手に入れてきたロスト・エンブレムのように…な。
 …やってみるか、少尉?」
「微力を尽くさせて頂きたく、お願い申し上げます」

リブラはこの時、アズライト・フォーチュン奪取作戦の指揮を、事実上任されたと言える。
彼女は内心、ディオーのロリアに対する遅々とした作戦行動を疑問に思っていたし、
まだ成長期の冒険者を、無理矢理危険な目に遭わせるような事にも、意味を見出せなかったのだ。
それは騎士たらんとする彼女の、真っ直ぐな精神の現れであるかもしれない。

「判った、指示書は追って出す…期待させてもらいたいものだな、少尉」
「はッ」

リブラは満足げに深々と礼をすると、退室した。
一人、静寂に包まれた部屋で…ディオーはクスクスと失笑が止まらない。

「フフ…そんな事、『凡人』に出来るものか…!
 これは、リブラの道化っぷりも見物かもしれん。
 大尉にはしっかり現場の様子を報告させんとな…ハハ、楽しみが一つ増えたわ」

ディオーは立ち上がり、窓から城下を見下ろす。

「叛逆者ロンテ…ついにその再来、か。
 その覚醒によって、世界の秩序は大きく揺れ動くことだろうよ。
 面白くなってきたではないか…」

静かな部屋の中で、ディオーの顔だけが異質に、歪んでいく。
その表情は、『歓喜』と形容されるべきものであった。





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