HyperLolia:InnocentHeart |
…刺客のように、フリーテの背後に迫る影。
その動きに真っ先に気付いたのは、オリオールだった。
「フリーテ!後ろだッ!」
叫びながら、眼前のオボンヌを斬り伏せる。
その声に反応しつつも、思うように身体を動かすことの出来ないフリーテは、
表情だけを蒼白に震わせながら、振り向いた。
突然現れた、巨大な姿。
人間よりもふた回りも大きく、全身を鱗で濡らしている。
直立してはいるが、オボンヌよりも、はるかに魚類を連想させる容姿。
生臭い息を吐く巨大な口、視点の読めない濁った白い眼。
手には、潮で錆びた三叉の長槍…トライデントと呼ばれる武器を持っている。
そして、その矛先は既に、フリーテへと向けられていた。
(くっ…一番、恐れていた事が…!)
本来…この、通称『半漁人』は海底洞窟の第四層より下に生息する魔物である。
獰猛かつ高い戦闘能力を持ち、ベテラン冒険者でも複数を相手にすれば、窮地に陥る事もある。
第四層、旧神殿域への入り口には簡単な結界が施されており、通常この半漁人がこれを突破し、
三層より上に現れることは無い。
…だが、無計画に掘り進められてしまったこの階層には、上下階に繋がる隠れた抜け道が存在する。
たまたま、それを発見した半漁人が三層に現れ、油断した冒険者達を蹂躙する…。
まるで事故のような話だが、海底洞窟を知る冒険者には、割と知られている『危険』なのであった。
過去、オリオールは一人で半漁人と対峙し、これを倒した事は何度もある。
それ故に、万が一現れても自分が押さえ込める…という自信があった。
だが、その自信がそもそも過ちであったと、今更ながらに思い知る事になる。
(私が、招いたというのか…この危機を)
戦闘とはそれが終了するまで、常に不確定要素を孕んだ行為である。
たった一瞬の油断や、勝利を確信するような慢心が、時に戦況を覆す事すらある。
窮鼠となった者が予想以上の力を出すのは、珍しい事ではないのだ。
こうしたい、こうあってほしい…というような、想像に応える戦場など存在しない。
オリオールは幾多の戦いを経て、それを良く理解しているはずだった。
だが、ロリア達に強くなって欲しいという思い、そしてフリーテの復活への願い、
彼女らが冒険者…ひいては『仲間』として、強く結束するきっかけになってほしいという期待。
それらがオリオールの選択肢を、より厳しい方へと選ばせてしまった。
一人の冒険者としては成熟している彼だが、惜しむらくは若い冒険者達の育成役としては、
その経験が皆無に等しかった事である。
「ひ…っ」
息を呑み、身体を振るわせるフリーテ。
慌てて逃げる様子も無く…ただ、眼前の恐怖に、竦んだまま。
濡れた三叉槍が、ぎらりと鈍く光った。
「フリーテ…ッ!」
オリオールが振り向こうとしたその足は、動かなかった。
先に斬ったオボンヌが、瀕死になりつつも彼の足に絡み付いて来たからである。
しかも、さらに闇の向こうから二、三匹が迫る気配がある。
なるべく多くの敵の目を向けようと、プロポックまで使って自分へと集中させたのだが、
ここに至り、完全に裏目に出てしまったと言える。
(わ…私は、約束したのだ…彼女を、守る…と!)
オボンヌ相手の戦闘なら何匹相手にしても、オリオールは負ける気もしない。
だが…このまま数に手をこまねいていたら、フリーテの危険は増すばかりだ。
今はただ、戦えなくても逃げてほしい…と、それだけを思って声を枯らす。
「フリーテ!立てッ!逃げろぉッ!!」
だが、フリーテは動かない…いや、動けない。
完全に『恐怖』の虜になってしまったかのような姿。
まるで…死をもって全てから解放されることを、望んでいるかのようにさえ見える。
半漁人の槍が、その脅えた瞳を貫かんとばかりに、高く掲げられる!
(…フリーテッ!!)
オリオールが、声にならない叫びを上げた瞬間。
ドッ!ドンッ!
フリーテは、半漁人の声帯など無いはずの口膣…厚い唇の奥から、悲鳴が漏れたような気がした。
半漁人の頭部に突き刺さる、二本の矢!
その衝撃と同時に、よろける体勢から無造作に突き出される三叉槍。
ガ…ァンッ!!
凄まじい勢いで繰り出された槍は、本来の標的を外してしまう。
狙われたフリーテの頭部を大きく逸れて、彼女の左わき腹を直撃した。
だが、脱力していた事がむしろ幸いだった。
驚異的に力強い突きだったが…変に身構えて防御をしなかった為、
その切っ先が着込んだ鎧を貫通しきる前に、身体ごと吹っ飛ばされたからだ。
「…ふーちゃんを、よくもぉぉ!!」
一陣の風が、岩場を飛ぶように跳ね、体勢を崩した半漁人に迫る。
直前でステップすると、その顔面めがけて…両足で、思いっきり飛び蹴りを決めた!
これにはたまらず、身体を横たえる半漁人。
一方、蹴った方もバランスを崩し、着地の姿勢をとれないままに地面を転がる。
「ロリア…!」
その様子を見ていたオリオールが、驚きの声を上げる。
吹っ飛ばされたフリーテには、クアトが駆け寄っていた。
二人は逆方向から迫っていたオボンヌを手早く片付け、オリオールの叫びに反応したのである。
すなわち、フリーテが危ない…という事態に。
「だ、大丈夫…!?」
倒れ、動かないフリーテを抱き起こすクアト。
「くっ…痛…わ、わたし…?」
どこか、呆然として…恐怖の中で感覚さえ失いつつあったフリーテに、鮮やかな現実感が蘇る。
わき腹に感じる『痛覚』が、彼女の意識を呼び起こしたのだ。
アーマーに開いた三つの穴が、三叉槍を食らった跡をまざまざと残している。
その下に着込んだ、鎖帷子がさらに衝撃を和らげたが…。
やはり切っ先は身体に到達しており、クアトが外した鎧の下に、うっすら血が滲んでいる。
「大丈夫、大丈夫!傷は浅いよ」
そう言いながら、クアトはポケットから携帯用の絆創膏を取り出して、渡す。
「これ、自分で貼れるよね。消毒薬も付いてるタイプだから」
「あ…は、はい…」
フリーテは、どこかまだ夢から醒めたばかりのような感覚に囚われ、状況を整理出来ない。
クアトはそんな彼女の様子まで理解しているのか、まるで安心させるかのように、
にこっと笑顔を作って見せた。
「アイツは、私とロリアで何とかするから!ここから動いちゃダメだよ」
「え…?」
フリーテはその言葉に、驚いた。
目の前のクアトは、それこそ小さな傷や痣の数は、立ち尽くしていただけのフリーテの非ではない。
その笑顔ですら頬に生々しい擦り傷を残し、血を滲ませているのだ。
(何で…逃げないの?何で、戦うの!?怖くないの…?)
ぽん、と肩を叩き…ハンマーを持ち上げたクアトに、フリーテは思わず訊いた。
「く、クアトさんは…怖くないんですかッ!?
あんな、恐ろしい化け物達と戦うなんて…し、死ぬかもしれないのに…!」
泣きそうな顔でそう言うフリーテを見下ろしながら、何故か照れくさそうに笑う。
「あはー…そりゃ、怖いよ」
「何で…何で、怖いのに…戦えるんですか…!?」
クアトはひとつ息を吐くと…らしくないと言える、凛々しい笑顔で答えた。
「本当に怖いのは、魔物そのものじゃなくて…私は、自分が死んでしまう事が怖い…んだと思う」
「し、死ぬこと…?」
「うん。この世に生まれて、為すべき事を為さずに…。
自分がしたい事、しなければならない事が沢山あるのに…それを果たさないまま死んでしまう。
それだけは、絶対に嫌だから」
「為すべき…事…」
「こんな時代だし、生きている間に出来る事なんて、きっとそんなに多くない。
でもね、生きているからこそ出来ることは、たっくさんあると思う…。
だから…戦うの!生きる為に!怖がってなんか、いられない!」
フリーテは、感銘を受けると同時に、驚いた。
どこか能天気に見えたこの商人が、ここまで『冒険者』として、
いや…一人の人間として、生と死をしっかりと見詰め、認識している事に。
「私は、ただ生きる為に…自分の為に戦う。
ロリアは、力を持たない…守るべき誰かの為に、戦うって言ってた。
フリーテは、どうするの?」
「…わ、私は…」
答えは決まっていたはずなのに…。
何が足りないせいで、身体が拒否してしまったのか…フリーテには判らない。
「…あの世で気付いても、遅いんだからねっ」
そんな辛辣な台詞を、悪戯っぽく笑って残し…クアトは駆け出した。
半漁人と対峙するロリアの加勢をすべく、ハンマーを構えて突っ込んでいく。
恐れを乗り越え、前へと向かっていくその力強い姿。
それはまだ、フリーテにはどこか遠くの存在に感じられるのだった。
ガ、キンッ!
中距離から放ったロリアの矢は、半漁人の身体に到達する前に、叩き落された。
片手で起用に三叉槍を回し、防御の体勢を取られてしまう。
ロリアは全身から、冷たい汗が出てくるのを感じる。
目の前で槍を構えるこの半人半漁の化け物は、ただ本能のままに襲って来る敵とは違う。
攻めに守りにと、巧みに槍を使い分ける手さばきは、まるで熟達した戦士のようだ。
そして何より…自分を追い詰める事を楽しんでいる!
確かな実感として、ロリアは敵の力量が自分を上回る事を認識しつつあった。
…相手の余裕、異様な迫力に自分が焦り、気押されつつある事も。
以前に戦った、さすらい狼もまた『魔族』と呼称される性質の存在であり、
この半漁人も同種の存在だとは、頭では理解できる。
しかし、さすらい狼はその名の通り、見た目は巨大で凶暴な『狼』そのものだった。
だが、この半漁人の容貌は少なからず、ロリアに動揺を与えた。
すなわち…完全な『人型』の魔族という事実が、である。
今までロリアが戦ってきた魔物は、いわゆる動物型や昆虫型がほとんどだった。
ウィローのような、手と足を持って自立する者も居ない訳ではなかったが、
『人型』と言うにはやや無理のある形態の魔物ばかりだったのである。
オボンヌを初めて見た時も衝撃的だったロリアだが、この半漁人はまた別格だった。
…人より巨大な身体、強靭な手と足を持ち、その胴は硬い鱗で固められ、
明らかな殺意を発しながら…槍を巧みに使って、ロリアを襲ってくる。
彼女は本能的に、悟った。
(私じゃ…勝てない!?)
戦闘に順応する、とは何も攻撃だけに限った話ではない。
相手と自分の力量を見計らって、戦略に反映できる事も重要である。
そういう意味では、ロリアは的確に状況把握が出来ていたのだと言える。
…しかし、ここでは悪い意味で『勝ち気』な彼女の戦闘傾向が出てしまった。
「でも…視力を奪えばッ!」
次第に手馴れてきたクロスボウへの矢の装填は、移動しながらでも行なえるほどになっていた。
バックステップで距離を取りながら、半漁人の動きを見逃さない。
槍の攻撃範囲に入らなければ、機動力はこちらの方が上だ。
ヒュンッ!
キンッ!!
連射された矢の一本が、標的を外して闇に吸い込まれて行く。
もう一本は半漁人の胸板に当たったが、硬い鱗に弾き飛ばされた。
この天然の鎧相手に、矢で効果的なダメージを与えるには…急所を狙うしかない。
もしくは、接近して撃ち込む…というロリア的に『得意』な戦法も有効だと思えたが、
予想以上に早く、威力のある槍さばきの前には、飛び込む事自体が至難の業と言えた。
「お待たせッ」
と、その側にクアトが跳ねるようにして現れた。
戦意まんまんの顔は、血や泥で薄汚れている。
多分、自分も同じような顔をしているんだろう…と、ロリアは何となく思った。
「ふーちゃんは?」
「大丈夫…意識はハッキリしてるし、オリオールさんもフォローに回ってくれてる」
遠く、オボンヌを捌きながらフリーテへと近づこうとするオリオールの姿があった。
座り込んだままのフリーテも、不安げな顔でこちらを見ているが…先の呆然とした状態よりは、
多少現実感を取り戻しているようだった。
ロリアとクアトはその様子を見届け、改めて半漁人に対峙する。
「あの敵…鱗が硬すぎて、ちょっとやそっとの攻撃じゃ歯が立たない…!」
「ハンマーでぶっ叩き続けるのもいいけど、先にこっちが疲れちゃいそうだし。
こんな事なら、風のマインゴーシュ置いてくるんじゃなかったよ」
まるで退く事を考えない二人の会話は、どこか楽しげにさえ聞こえる。
ロリアはここで負ける、などという事は思いもしなかった。
初心者修練場、さすらい狼…どんなに苦しい戦いでも、土壇場で勝利を拾ってきた。
絶対に諦めなければ、勝機は開けるものだとロリアは信じていた。
もっとも…それは確信と言うより思い込みに近い、彼女の弱気や不安から生み出される期待感であり、
本人自身がそうだと気付かない以上、賭けるにはやや危険な思考だと言えるだろう。
「どっちみち、接近しなきゃまともに攻撃も出来ないけど…あの槍が厄介だしねぇ」
「…じゃ、先に槍を何とかしますか!」
「それしか無いかも!」
二人、頷いて手にした得物を構え直す。
半漁人はまるで、どちらを先に血祭りに上げるか吟味するかのように…ゆっくりと迫っていた。
「槍の攻撃範囲ギリギリでチャンスを見つけるから、援護お願いね」
「了解です!槍を無効化した瞬間に飛び込んで、二人がかりで接近戦に持ち込みましょう」
「いくよぉっ!」
ロリアが構えたクロスボウから、矢を放つ。
それに追いすがるかのように、低く飛び出し、突っ込んで行くクアト!
だが、半漁人には慌てる様子すら無い。
ロリアの放った矢は、ある程度の遠距離からでは効果が無いと知られていた。
ましてや、援護の為に精密な照準も付けずに放ったものである。
そこまで読まれていたのかは判らないが…ともかく、半漁人は矢を避けもせず、身体で弾いてしまった。
槍の標的はクアトに定められ、二人が予測したよりも早く襲い掛かる。
「…くっ!!」
クアトは慌ててバックラーを前に出し、精一杯の防御の構えをする…が。
ガアァァァンッ!!
凄まじい衝撃に、小柄な身体が吹っ飛びそうになるのを、必死に堪える。
足元は自然と後退させられ、盾を持つ左手はびりびりと痺れが激しい。
だが…ここで踏ん張らねば、とクアトは退くことなく、半漁人と対峙する!
ズガッ、ガ、ガァンッ!!
しかし…半漁人の激しい連続突きに防戦一方のまま、槍を封じる機会などまったく見えなかった。
ロリアの援護も距離をおいては役に立たず、こう乱戦に持ち込まれると誤射を恐れ、積極的に撃てない。
…そして、半漁人は二人と一直線上に常に位置し、援護を潰そうとする意図が見えていたのだ。
「…見透かされてるというの!?」
ロリアは焦った。
槍を何とかしよう…という作戦が、必要以上にクアトの苦戦を招いてしまった事もあり、
自分が現状打破の為に動かねば…と、それだけで頭がいっぱいになりつつあった。
(クアトさんと逆方向から、近接戦を仕掛けるしか…!)
防戦一方のクアトを、一旦退かせて…別の方策を講じるべきだ。
そう思い、足が前に出かけた瞬間。
ガッ…バキャッ!!
何かが砕けるような不快な音に、思わずロリアの足が止まる。
それはクアトのバックラーがこの戦いの中、度重なった衝撃に…遂に耐え切れなくなった悲鳴だった。
盾の下半分を破壊しながら三叉槍は貫通し、その先端はクアトの足に深々と突き刺さっていた。
歯を食いしばり、苦悶の表情で激痛に耐えるクアト。
「クアトさんッ!!」
たまらず、ロリアは駆け出した。
半漁人はそれでも目標をクアトに定めたまま、ダメージを与えた獲物に追い討ちをかけるべく、
また得物を構えなおそうとする…が。
槍は、動かない。
クアトが遂に『動きを止めた』その武器を、両手で掴んでいたからだ。
一撃を受けてまで見出したチャンスを逃す訳にはいかない、とばかりに…必死にしがみ付く。
「…ぅ、わっ!!」
だが、体躯の違いもあり、腕力勝負でクアトが敵うはずもなかった。
ぶんっ!と力任せに振り上げられた槍と一緒に、彼女の身体までもが宙に浮かぶ。
その衝撃で、突き刺さった大腿部から槍が抜け、真っ赤な鮮血が弧を描いた。
…それでも、クアトは手を離そうとしない!
忌々しげに身体を揺らした半漁人は、この邪魔な物体を引き剥がすべく、槍を無茶苦茶に振りまくる!
遂には、石柱に向かって思いっきり叩きつけるという行動に出た。
ド…ッ!
「ぅ…く…」
見た目よりタフな彼女も、さすがにこの衝撃には耐えられなかった。
全身を襲った鈍痛に、たまらず意識を失い、石柱の下へと倒れこむ。
しかし、それでも槍はバックラーを貫いた穴に引っかかり、外れない!
そして…クアトの奮戦は、決して無駄では無かった。
ダ、ダンッ!!
まったく警戒されないまま、至近距離まで近づいていたロリア。
放たれた矢は、槍を握った半漁人の手の甲へと突き刺さる。
距離に加えて、鱗の薄い部分であり、ほぼ貫通するほどの衝撃が襲った。
たまらず、手を離してしまった隙に…ロリアは三叉槍を思いっきり蹴り上げる!
危険な武器は遂に魔族から離れ、弧を描いて飛び…倒れているクアトの側に、転がり落ちた。
「…こ、のぉッ!!」
ロリアの攻撃は止まらない。
目の前で、クアトをあんなふうに痛めつけられた…それに対する怒りが、身体を突き動かす。
槍を奪われ、少なからず動揺の色が見える半漁人に、反撃の態勢は整っていなかった。
しかしロリアにも、矢を装填するような余裕は無い。
手にしたクロスボウを両手で握り締め、まるで鈍器のように構えると…そのまま横薙ぎに振りぬいた。
バキィッ!!
半漁人の頭部にクリーンヒットした弩は、その激しい衝撃に手を離れてしまう。
だが、地面に転がるそれを気にもせず、ロリアは腰のナイフを抜いた。
身体の内から湧き出る力につき動かされるがまま…攻撃衝動を止める事が出来ない。
苦し紛れに突き出された腕を軽く避け、そのステップを助走代わりに跳躍した!
ザシュッ!!
激しい音と共に、真っ黒い液体が勢い良く噴出す!
あるいは人と同じ、赤い色だったのかもしれないが、灯りの乏しい地下洞窟では漆黒に見えた。
逆手に持ったロリアのナイフが、半漁人の巨大な右目に深々と突き刺さる。
だが、反撃に窮すると思われた化け物は…血濡れた腕の猛烈な力で、彼女の左手首をわし掴んだ。
「!?」
ダメージを負って怯むどころか、むき出しの殺意をますます高まらせる半漁人。
ロリアは掴まれて動かせない左手に握ったナイフを、持ち替える為に引き抜こうとする。
だが、その時。
バキンッ!
ナイフの柄から、刃先が折れた!
元々、初心者訓練場で支給された、決して精度が良いとは言えない代物である。
繰り返しの激しい戦いの中で、既に耐久度の限界を迎えてしまっていたのだ。
「しまっ…!」
ドザーーーッ!!
ロリアが思わず出した声は、途中で激痛と共にかき消された。
半漁人が、彼女を自分から引き剥がし、力任せに地面に叩き付けたのである。
「…かっ…は…」
痛みというより、全身へのあまりの衝撃に息すら止められたようで、声も出せない。
震える手から、柄だけになってしまったナイフが滑り落ちる。
(は、反撃…ぶ…武器、を…!)
それでも、戦うことを忘れなかったロリアだったが…身体はまったく、言うことを聞かない。
腹ただしいくらいに、定まらない視点。
だが、それは意思とは関係なく、またぐるりと視界を回す。
ズジャァッ!!
再び、まるで人形を振り回す子供のように、半漁人はロリアを引き回す。
そして、躊躇無く石柱へと、その身を叩き付けた。
「がっ…!」
無造作なその『攻撃』に、頭を打たなかったのは、あるいは幸いだったかもしれない。
だが、背中に強い衝撃を食らい、ロリアは全身がショック状態に陥ったようだった。
四肢の全てに、力が入らない。
がくがくと震えるばかりの手や足に、心までが痺れてしまいそうになる。
左目…もとい、頭部からの出血も収まってきた半漁人は、片手でゆっくりとロリアを掲げ上げた。
この憎い『敵』を、どう痛ぶれば、傷を癒すことが出来るのか。
人間ごときが、調子に乗って『魔族』である自分を傷つけた報いを、どうすれば…。
そんな憎しみを込めた、色の無い片目が、じっと無防備なロリアを見詰める。
ドカッ!
「う…ぐっ!」
半漁人は空いた右腕で、ロリアの腹部を殴りつけた。
こうも無防備な所へ化け物の力まかせの一撃を食らい、無反応でいられるはずがない。
鳩尾を締め付けるような痛みに、ロリアはぼろぼろと涙を流した。
痛覚ははっきりしているのに、身体が言うことを聞かない。
半漁人としては、この弱った人間の反応を見るがための一撃だった。
それが、無抵抗のまま泣き出す…という意外な表情を引き出せたことに、どす黒い喜びが広がる。
ドカッ!!
「ひっ…ぃ…」
一撃ごとに、どんな悲鳴を上げるのか。
半漁人は愉悦に浸りながら、ゆっくりとこの人間を殺そうと決めた。
最後は、自分と同じように…左目を抉り、その叫びの中…殺すのだ、と。
…一部始終を、フリーテは見ていた。
見ているだけ、だった。
強大な化け物に、果敢に立ち向かう二人を。
投げ飛ばされ、動かなくなったクアトを。
そして今、引き回され、打ち付けられ、無抵抗なままに痛ぶられるロリアを。
オリオールは依然、多量のオボンヌに囲まれ、両者の戦場は離れつつあった。
ロリアが絶対絶命のこの危機に、助けられる者は…誰も、居ない。
「ろりあん、が…」
誰に向けての言葉だったのだろうか?
フリーテは無意識に、口を開いていた。
「ろりあんが、死んじゃう」
小さく震える唇から、小さな声が漏れる。
それは、フリーテの放つ、フリーテにしか聞こえない声。
…その囁きで、思い出した。
かつて、戦火に両親を無くし…ただ、心を閉ざして塞ぎ込むだけだった頃。
自分の心の中に、いつも小さく響く声があった事を。
(ねえ、いつまで真っ暗な所で、ひとりでいるの?)
(外に出てみようよ…なんだか、楽しい声が聞こえてくるよ…)
自分を立ち上がらせようと、親身に励まし、必死に鼓舞しようとしたあの声。
限りなく優しく、強く、前向きなその言は…まるで、自分とは正反対に思えた。
目を覚まして、ロリアの笑顔に出会った時、初めて気付いたのだ。
…その囁きの主が、自分自身だった事を。
「助けなきゃ…ろりあんを、助けなきゃ…」
(無理です…オリオールさんも、クアトさんも…もう、間に合わない…)
「誰かが…助けなきゃ…」
(無理…)
「…ろりあんが、死んじゃうのに…私はどうして、生き延びようとしているの…?」
(…!…)
心の中の、本当のフリーテは…もう、全て判っていた。
クアトの言った言葉が、鮮やかに脳裏に蘇る。
(うん。この世に生まれて、為すべき事を為さずに…。
自分がしたい事、しなければならない事が沢山あるのに…それを果たさないまま死んでしまう。
それだけは、絶対に嫌)
今、自分が為すべきこと、しなければならない事、その為に自分が在る事…。
この世で一番大切な人が…目の前で死の危機に晒されて。
フリーテはようやく、最も大切な事に気付いたのだ。
いや…恐怖と疑心で閉ざされていた思いを、やっと取り戻した…と言うべきかもしれない。
(フリーテ…どんなに弱くても、惨めでも、情けない戦い様でも…誰も君を嘲笑などしない。
結果、ロリアを守ることができれば…それは常に、君にとっての勝利なのだ)
「そう…ですよね、オリオールさん…。
ばかですね、私…」
悔恨の涙が一滴、白い頬をゆっくりと滑っていった。
「…あ、ぁ…」
何度も何度も拳を食らい、痣だらけの身体は見るも無残な有様だった。
ロリアは、漠然と…自分はもうすぐ死ぬのだ、と思った。
今まで何度も危機に陥った事はあったが、最後は必ず勝利を収めてきた身である。
それ故に、自分は『敗北』したんだと…理解できるだけの思考力は、まだ残されていた。
しかし、これはゲームではない。
勝った負けたで一喜一憂して終わる、そんな甘い世界ではないのだ。
ロリアが今まで勝利してきた…という事は、数多の魔物たちを『殺してきた』と同義なのだ。
今更…そう、今更ながらに、敗北したという現実の中で、ロリアはその事に気付く。
自分の時だけ、特例などは無いという事に。
不思議と、恐怖は感じなかった。
冒険者として精一杯戦った末の結果なら、仕方が無いのかもしれない…とさえ思える。
(クアトさんはもしかしたら、もう…。
オリオールさん…戦う音が聞こえない…あなたも…?
そうだよね、二人共居ないのに自分だけ無事なんて…おかしいもの、不自然すぎるもの)
半ば達観、半ば諦め…もう動かない身体は、半漁人に止めを刺されるのを待つばかりだった。
だが、それでも…心の中のどこかで、小さく囁く声がする。
それは…最後まで信じたい、一番大事な友人を呼ぶ声。
しかし、ロリアはそれを口にしてしまう事に、躊躇いがあった。
もし…『彼女』が何も応えてくれなかったら、自分は死と同時に、親友との絆まで失う事になる…と。
せめて、死してからも…たとえ自分がそう思っているだけでも、親友であって欲しいから。
彼女はもう充分すぎるほどに、戦いの恐怖に耐えて来た。自分の我侭な旅に、付き合い続けてくれた…。
酷い目に遭わせ続けた張本人である自分が、これ以上何を望む事ができるだろう…?
半漁人の顔は、まるで笑っているかのように歪んで見えた。
視界すらぼやけてしまっているのだろう。
そして…その瞳に、鱗を纏った巨大な掌が迫る。
ロリアの左眼を抉り取り、断末魔の叫びを上げさせる為に。
直感的に、ロリアは気付いた。
遂に、自分は殺されるのだと。
避けることの出来ない死が、もう間近に迫っているのだ…と。
そう思うだけで、心まで竦み、頭の中が真っ白になっていくようだった。
…その中で。
堪えきれない思いが、思考の空白を濁流のように駆け巡って行く。
死の淵にあっても、秘めようとした心の叫び。
今まさに、この瞬間にあって、それはロリアの中から殆ど無意識に飛び出した。
最後の最後には…一番信頼し、一番大好きな友達が、自分を守ってくれると言った彼女が、
必ず来てくれると。
ロリアは、心の奥底で…信じていた。
「ふーちゃん…助けてぇっ!」
もう動かせないと思っていた口が、叫んだ。
同じように…もう戦えないと思っていた彼女の身体は、疾風のように駆けた。
ズシャァアァアアァアァアッ!!
一足飛びから、両手で渾身の力を込めて振り下ろされた剣。
風の精霊力を纏った一閃は、緑色の光で残像を描き、剣激の軌跡を残す。
まったく予期していなかった攻撃に、半漁人が防御できる訳も無かった。
ド、サッ!
ロリアの左腕を掴み、高々と掲げていた鱗だらけの腕。
その、肘から先が、ロリアの身体とともに地面に崩れ落ちた。
突然の事態に、動揺を隠せない半漁人。
武器も無く、身を守ろうにも片腕を失い、明らかな狼狽を見せる。
そこに追い討ちのように、再び緑色の光が薙ぎ払われる!
間一髪、身を引いて避けようとしたものの…鋭い剣先は、化け物の胸板を切りつけた。
ロリアの矢を弾いた鱗が、ベキベキと音を立てて飛び散って行く。
水棲の魔物に対する、風属性の武具の威力は格別だった。
「殺すなら…っ」
震える身体を、必死に起こそうとするロリアを守るかのように、
半漁人の前に立ちはだかる姿。
「私を…殺しなさいッ!」
恐怖に震えていた表情は、もう無い。
目の前の魔物にまったく臆せず、静かに怒れる瞳で、剣を構える。
「あ…ぁ…!」
ロリアの瞳から、ぼろぼろと涙が零れた。
様々な思いが交錯して、湧き上る気持ちに自分でも戸惑う。
ただ…自分の一番の親友は、信じた通りの『彼女』だったという事が、果てしなく嬉しかった。
「…ふーちゃん…ふーちゃん…!」
何かを言おうにも、名前を呼ぶことしか出来ない。
それでも、全てが伝わっていた。
振り返り、ゆっくりと頷くその眼鏡の下には、凛とした瞳の強さがあった。
「遅れて、ごめんなさい…これ以上は、やらせませんッ!」
突然現れ、獲物を仕留める最高の瞬間を邪魔され、あげく左腕を切り落とされ…。
半漁人は、猛り狂いそうになっていた。
ことごとく小賢しい人間達に、憎悪が溢れんばかりに体内に満ちるのを感じる。
目の前に現れたこの剣士を、八つ裂きにしたい衝動に駆られる。
その猛りを現すかのように、失った左眼から鮮血が火山のように噴き出した。
身を引いた化け物は、倒れたクアトの側に迫っていた。
フリーテは彼女の身を案じ、なんとか引き離さなくては…と思うが、
ここは半漁人の動きのほうが早かった。
化け物の狙いはクアトではなく、武器だった。
転がっている三叉槍を拾うと、ぶんっ!と片手で器用に回して見せる。
その勢い、迫力は片手片目を失ったハンデなど感じさせないものがある。
槍を回した衝撃で、先端に絡んでいたクアトのバックラーが外れ、フリーテの足元に転がった。
彼女はそれを拾い、素早く左腕に装着する。
フリーテは盾と片手剣…というスタイルが元々の戦い方だ。
ロリアの危機に飛び出した時に置いて来てしまった、自分の盾を取りに行く隙は無い。
ドオッ!
半漁人は怒りのままに、フリーテ目掛けて突っ込んでくる!
受ける彼女も、ロリアを巻き込まんが為、自ら前に出た!
ギィンッ!!
突き出された槍と、それを受けた剣が、激しい火花を散らす。
さすがに片腕を失った半漁人は、動きのバランスが悪い。
それを見逃さないフリーテは、隙を狙って素早い突きを繰り出す!
ドシュッ!
左肩に剣先が突き刺さり、また黒い鮮血があふれ出る。
半漁人はヨタヨタと怯みながらも、槍をフリーテに向け、戦意を衰えさせる様子は無い。
…事ここに及んで、彼女はようやく、ロリアの気持ちを完全に理解した思いだった。
すなわち、『誰かの為に、命を賭す』という事の意味を。
身近な人を…大好きな人を失いそうになる事で、ようやく気付いたのだ。
(そんな苦しみや悲しみを目の当たりにして…自分だけが生き残るなんて、嫌!
だったら、私は…その為に、死んでしまってもいい!私が、死ぬべきなんだ…!
その代わり…ろりあんを、大切な人を、絶対に…守る!)
フリーテにとっては、今はロリアの事だけ、かも知れない。
だが…ロリアはこの世界が、自分の周囲の人々が本当に好きな、純粋に人を愛せる少女なのだ。
そんな彼女なら、あらゆる誰かを守りたい…という気になるのも、今なら当然とさえ思える。
母親という大切な家族を失うことは、ロリアにとって唐突で、衝撃的だったとは理解していた。
しかし、その喪失から生まれた決意は、フリーテが想像するより遥かに大きな物だったのだ。
ようやく…今この瞬間、彼女はあの冒険者になる事を決意した日のロリアと、同じ場所に立ったと言える。
(自分の好きな人達の、未来の為に…その為に賭ける命なら、惜しく無い!
それは、私の戦いが明日という…人々の希望を作っていく事、そのものなのだからっ!)
炯々と輝く魔族の眼光にも、もう身体は震えない。
戦いの、死の先にあるものに気付いたフリーテは、完全に恐れを払拭していた。
キィンッ!
激しく打ち合う、フリーテの剣と半漁人の三叉槍。
いくら戦意を取り戻したと言っても、それで戦闘技術が向上する訳ではない。
未だ我流の癖が抜けないフリーテだが、それを補って余りある気迫が力となっている。
半漁人も槍を取り戻したが、片目片腕を失い、戦力は大幅に落ちている。
その上で、二人の打ち合いはほぼ互角と言って良かった。
(フリーテ…あんな風に、戦えるのか…!)
オボンヌの群れを切り伏せながら、オリオールは離れた場所での戦いに目を見張った。
惨めに震え、脅えるだけの少女はもう居ない。
戦う事に意義を見出した、紛れも無い本物の『剣士』の姿があった。
打ち合いは何度も続いたが、決勝点は見えなかった。
フリーテの剣に対して三叉槍のリーチは絶対的で、避けながらの攻撃は難しかった。
隙をついて飛び込んでも、攻撃範囲の開かれた距離を一瞬で詰める事は出来ない。
結果、ダメージを与えている分フリーテが優勢とは言え、確実な勝機は見出せないままだった。
(やはり…この槍が、厄介…!)
フリーテは、ちらとロリアの方を見た。
泥だらけ、痣だらけの酷い姿で、それでも心配そうな顔でこちらを見ている。
…クアトの方を見る。
石柱に叩き付けられてから、ぴくりとも動かない。
その足の部分に出来ている血だまりが、傷の深さを物語る。
二人を早く安全圏に連れていかなければ、またオボンヌの群れが来る可能性もある…。
(これ以上、時間をかける訳にはいかない!)
フリーテは勝負に出る、と決めた。
相手に確実なダメージを与える為には、どうすればいいか…?
剣を構えなおし、敵の動きを注視する。
そんな、フリーテの静の動きを脅えと見たのか。
半漁人は槍を腰高に構え、素早い動きで突進して来る!
この巨躯の力で貫かれれば、間違いなく即死の威力を持った突撃。
しかし、これこそフリーテの待っていた相手の反応だった。
ザッ!
突然の動きに、半漁人も、その様子を見ていたロリアも、目を疑った。
フリーテは退きも避けもせず…自分も同じように、半漁人に向かって突撃したからである!
両者の距離は一瞬で詰められ、判断の遅れた化け物より、フリーテの動きが早かった。
クアトのバックラーごと、その腕を自ら槍にぶつける!
衝撃で、ついに粉々になってしまう盾。
その逆方向からの反動に、突き出そうとした半漁人の槍の動きが遅れる。
フリーテの心臓を狙うはずだった照準は大きく外され、その先端はバックラーの破片に飛び込む。
留め金を破壊されたガントレットの装甲が歪み、弾ける感触。
それでもフリーテは、その視線を目指す標的へと、まっすぐ狙いを付けていた。
ドォオォォンッ!!
二つの影が、激突する。
そのあまりの速さに、ロリアは一瞬、状況が判らなかった。
高く、天を突くように掲げられた三叉槍。
その穂先に捉えられた姿は無く、フリーテは半漁人の懐へと、飛び込んでいた。
そして、手にした剣は柄まで深々と刺さり…化け物の喉から脳へと、貫通していた。
「ふ、ふーちゃんっ…!」
ロリアが叫ぶが、フリーテは息を切らせて…そちらを向くことも出来ない。
(いくら魔物とは言え、急所をこうも貫けば、致命傷のはず…!)
そう思いながらも、未だ倒れない半漁人に油断できないフリーテ。
次の瞬間、鱗だらけのその手から、がらん…と音を立てて、槍が転がった。
「やっ…た…?」
フリーテが、思わず呟いた時。
ガツッ!!
その巨大な掌が、フリーテの肩へ掴みかかった!
「うぁ…っ!!」
肩を砕かんとする、異様なまでの怪力。
だが、フリーテは覚悟を決めていた。
これが最後の、力比べなのだ…と。
(これに耐えたら…私の、勝ちッ…!)
ミシミシと、自分の肩の骨が、嫌な音を立てるのが聞こえる。
鎖帷子ごと、いつ千切られてしまってもおかしくないとさえ思える圧力。
フリーテは握った剣の、上向いた刃先を迫り上げるように…全力の力を込めた。
巨大な口に通じる喉が切り裂かれ、ゴボゴボと血が噴出し始める。
フリーテは精神を集中し、剣先へ力を注ぐイメージを描く。
「もう、終わりにしましょう…っ!」
その言葉と共に、剣が風の精霊力…緑の光と共に、白く発光を始める。
使い手の精神力を注入し、一撃必殺の剣圧を叩き込む…『バッシュ』と呼ばれる剣技。
「はぁぁぁぁぁッ!!」
フリーテの全力を持って振り上げられた剣は…貫かれた喉から裂かれ、半漁人の頭部を完全に両断した。
同時に、肩を破壊しようとしていた腕の力も抜けていく。
一歩、バックステップで距離を開けつつ…フリーテは剣の構えを崩さない。
裂けた頭部はブルブルと震え、壮絶なまでに血が噴出し、彼女の髪や顔を赤黒く染めていく。
そして…まるで迷子のように、ニ、三歩、よろよろと後ずさり…。
ズゥゥゥゥゥン!
半漁人は、遂にその巨大な身体を横たえた。
時折、足を震わせるが…もう、起き上がる様子は微塵も見えなかった。
(…倒し…た…)
フリーテはまだ鈍い痛みの残る肩を抑えながら、息を切らせて、敵の姿を見下ろしていた。
こんな巨大で、恐ろしい魔物と自分は戦っていたのか…などと、何故か客観的な視点で思ってしまう。
しかし、これは全て現実だと、フリーテはしっかり認識していた。
そして…以前のような恐怖や脅えは、もう…どこを探しても見つからない。
今はただ…ロリアが自分を必要としてくれた事。
それに応えるべく、彼女を守れた事。
それが『剣士』としての充足感となって、静かにフリーテの心を満たして行くのだった。
「ふーちゃん…!」
ロリアが、よろよろとした足取りで、フリーテへと近づく。
フリーテは慌てて駆け寄ると、手にした剣も落として、その身体を抱きしめた。
「…ごめんなさい…私がもっと早く、勇気を出していれば…!
ろりあんを、こんな酷い目には…!」
「ううん、そんな事無いよ…。
えへへ…やっぱり、最後に私を助けてくれるのは…ふーちゃんだね…」
互いの体温が、触れた身体を通じて感じる心臓の鼓動が、何より嬉しかった。
「…終わったようだ、な」
そこへ、一人オボンヌの大群をひきつけていたオリオールも凱旋した。
孤独で壮絶な戦いの跡を身体中に残し、こちらも酷い有様であった。
「だ…大丈夫ですか、オリオールさん!?」
「心配ない…少々疲れたが、傷はみな浅いものばかりだ。
それより、君達が無事で良かった」
「はい、ふーちゃんが…私を守ってくれたから…」
涙ながらにそう言うロリアに、オリオールは頷く。
「すまない…本来は、私が君らを守らなければならなかった。
私の力不足で、辛い目に合わせてしまった…」
「それを言うなら、このパーティのリーダーである私に、責任があります。
…あまり、自分を責めないでください…」
「だが…」
オリオールは沈痛な面持ちで、視線を向ける。
そこには、倒れたまま…動かないクアトの姿があった。
「く、クアトさんっ…!」
慌てて、駆け出そうとし…転びそうになるロリアをフリーテが支え、三人は急ぐ。
うつ伏せの身体をフリーテが起こす。
血の気のない顔は、最悪の事態を想起させるに十分なものだった。
「クアトさんっ!起きて!目を覚まして…死なないでえっ!!」
ロリアが悲痛な声を上げ、胸元を掴んでがくがくと揺さぶった。
…と、ゆっくりと動いた手が、その行為を止めさせようと、弱々しく振られる。
「あー…か、勝手に殺さないでよぉ…うぁ、頭痛い…」
「クアトさん…!」
「良かった…」
クアトが無事で、意識がある事に、一同に安堵の空気が広がった。
だが、その顔は真っ青で、いつもの元気な彼女からは想像もできない苦しげな表情を見せる。
「…あいつ…は?」
「大丈夫、ふーちゃんが止めを刺してくれたよ」
「そか…ちぇ、イイとこ持っ…てかれ、ちゃった…な…」
「いかんな、出血量が多すぎる…早急な手当てが必要だ」
「今、またオボンヌに襲われたら危険です…姿が見えないうちに」
フリーテとオリオールは頷いて、ロリアを見る。
リーダーに委ねられた選択肢、だが…一行の考えは、一致していた。
「…撤収、しましょう!」
応急処置を施したクアトを、オリオールが背に負ぶう。
薬を飲まされた彼女は、そのまま意識を失い、眠ってしまった。
フリーテが各人の落とした装備と、手近な収集品をかき集め、クアトのカートに突っ込む。
そのカートの繋がれたエクセリオンの背には、ロリアが腰を下ろした。
彼女も疲労の蓄積で、ぐったりとしたまま口数も少なくなり…やがて、眠ってしまったようだった。
「よし、急ごう」
「はいっ」
オリオールが先頭、エクセリオンの手綱を曳いたフリーテが後に続く。
「フリーテ」
…と、オリオールは首だけ振り返って、その名を呼んだ。
「はい?」
「…すまない」
短くそれだけ呟くように言うと、足早に歩き出す。
フリーテには、その言葉の意味が良く判らなかった。
ルーンミッドガッツ王国首都、プロンテラ。
その王城に本陣を構える、王国親衛隊。
王に仕える騎士の中でも精鋭たる、第一親衛隊『アルビオン』の本部となっている一室。
上品な飾具に囲まれた部屋で、一人の男が静かに『報告』を聞いていた。
親衛隊長の紋様が描かれた黒衣を纏ったその体躯は、騎士として申し分ない力強さに溢れている。
銀の長髪を後ろで結び、険しい顔に刻まれた傷と皺は、彼を実年齢よりも老いているように見せた。
しかし…その背後に立ててある、鞘に納まった巨大な斬魔刀は、この男の強さを雄弁に物語っていた。
…王国軍第一親衛隊長、ディオー・シュトラウト大佐、その人である。
報告をしている若き騎士…リブラ少尉も、副官として長いとは言え、
彼と二人っきりという場では、未だに緊張感を覚えざるを得ない。
ディオーはそのくらい厳格にして剛健、そしてどこか陰のある…そんな人物であった。
「…つまり、消失したも同じという訳、か」
「はっ…モロクのローゼンベルグ氏の手に渡った、という所までは突き止めたのですが…。
先日火事騒ぎがありまして、その間に失われたとか…。
あるいは、氏が紋章に価値を見出して隠蔽している可能性も…」
「あの『都落ち』に、そんな鑑識眼は無い。
無論、誰かが入れ知恵したというのも、あり得ない話ではないが…。
それに、またどこぞの冒険者が嗅ぎまわっているのだろう?」
「はい…テミスという名の女騎士と、同行のプリーストの二名が…」
「ふん、『蒼の騎士』か…『銀の悪魔』といい、どうにも大物が絡みすぎだな。
後ろで手を引いている奴に関する情報は?」
「トリエ中尉の指揮で調査中ですが、冒険者ギルドを介せずに、というのはやはり難しく…」
「まぁ良い…監視だけは付けておけ。
いずれにせよ、連中の探索でハッキリしてくれるだろうよ。
アレが失われたのか、それとも誰かが所持しているか、がな…。
それから動いても、問題はあるまいよ」
ディオーは肩をすくめながら、テーブルから紅茶のカップを手に取る。
そして、片手を話の続きを促すように振った。
「はい、続いて…例の『アズライト』の娘に関してですが…」
「うむ、それを聞きたかったのだ…海底洞窟での仕掛けは、どうなった?」
「はッ…ご命令どおりに騎士二名を派遣し、彼女らを乱戦に持ち込むよう計らいました。
半漁人の誘導も、上手くいったようです。以後の消息は未だ不明ですが…」
「フフ、戻ってくるさ。
それくらいの苦境、乗り越えてくれなければ…ロンテの末裔として、話にならん」
(…それに、かの娘には『椋鳥』が付いているのだしな)
至極、厳しげな表情…ディオーはいつもこのような顔なのだが…は、
ここに来て、初めて微笑を浮かべた。
リブラはその珍しさに、驚きつつも平静を保つのに必死である。
「…連中がイズルードに帰還したら、タイミングを見計らって仕掛けてみるか。
奴らのうちの一人は、こちらの事を知っている…この際、多少派手にやっても構わんだろう。
ロリアーリュとかいう娘が、確かにアズライト・フォーチュンに選ばれた者だと、確認する必要がある」
その言に、リブラは不思議な違和感を感じた。
…ロリアーリュがアズライト・フォーチュンなる紋章を所持し、選ばれた者だからこそ、
現在もこうして仕掛けや追跡を行なっているのではないのか…と。
ディオーの台詞だと…まるでロリアは、選ばれし者の『候補』のようにも聞こえる。
「了解しました…実行部隊は、誰に任せますか?」
「そうだな、私が直接出向くのも一興だが…」
少し考える仕草をした後、ディオーは指を鳴らした。
「そうだ、出向中の大尉がもうすぐ戻ってくるな?奴にやらせろ。
あの娘とアズライトに関する報告を、初めてもたらしたのは奴だしな…。
少尉、お前も同行して便宜を図れ…指示書は追って出す。以上だ」
「…了解です」
と…全ての報告を終え、退出するばかりだったリブラは、立ち尽くしたままだった。
何か言いたげな彼女に、ディオーは不可思議な視線を向ける。
「何だ、少尉?まだ話があるのか?」
「はッ、お許し頂ければ…お聞きしたいことが」
「言ってみろ」
リブラは一礼すると、口を開いた。
「私は、この『紋章狩り』が、現王の治世を守る為の任務と聞きました。
聖戦より千年の折り、世界の終末思想を加速させかねない要因のひとつ…それが古の『紋章』の存在。
伝説の騎士団や英雄の子孫を騙り…民衆を煽って混乱を招く『賊軍』の出現を促しかねないもので、
これはその元凶を絶つ為の任務だと…」
「その通りだ、少尉」
「ですが、今回の…その『アズライト・フォーチュン』と所持者への対応は、
本来の目的から、逸脱し過ぎているような気がします。
駆け出し冒険者の成長記録など、監視する必要があると思えません。
早急に紋章を奪ってしまえば、事は簡単だと思うのですが…?」
「ほう…なるほど、な」
ディオーは部下の言を、もっともらしく頷きながら聞き、そして答えた。
「少尉…ならば、奪取してみるがいい。
その為の装備と人員は、お前の要求を通す。
大尉にもお前の作戦に従うよう、私から言っておいてもいい」
「え…!?」
予想もしなかった展開に、リブラは面食らった。
だが、ディオーの顔に冗談の色は無い。
「もし…奪う事が出来たのなら、確かにそれに越したことは無いだろう?
今まで、我々が手に入れてきたロスト・エンブレムのように…な。
…やってみるか、少尉?」
「微力を尽くさせて頂きたく、お願い申し上げます」
リブラはこの時、アズライト・フォーチュン奪取作戦の指揮を、事実上任されたと言える。
彼女は内心、ディオーのロリアに対する遅々とした作戦行動を疑問に思っていたし、
まだ成長期の冒険者を、無理矢理危険な目に遭わせるような事にも、意味を見出せなかったのだ。
それは騎士たらんとする彼女の、真っ直ぐな精神の現れであるかもしれない。
「判った、指示書は追って出す…期待させてもらいたいものだな、少尉」
「はッ」
リブラは満足げに深々と礼をすると、退室した。
一人、静寂に包まれた部屋で…ディオーはクスクスと失笑が止まらない。
「フフ…そんな事、『凡人』に出来るものか…!
これは、リブラの道化っぷりも見物かもしれん。
大尉にはしっかり現場の様子を報告させんとな…ハハ、楽しみが一つ増えたわ」
ディオーは立ち上がり、窓から城下を見下ろす。
「叛逆者ロンテ…ついにその再来、か。
その覚醒によって、世界の秩序は大きく揺れ動くことだろうよ。
面白くなってきたではないか…」
静かな部屋の中で、ディオーの顔だけが異質に、歪んでいく。
その表情は、『歓喜』と形容されるべきものであった。
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