HyperLolia:InnocentHeart
−海底洞窟−
017:Sea bed cavern


東の水平線が白く輝き、夜明けを迎える時間。
アルベルタからイズルードへ向かう定期船は、約二日間の航海を終えようとしていた。
北西に淡く光る、灯台の明かりが少しずつ近づく。
一人、早く起きたフリーテは船首で潮風を受けながら、それを見詰めていた。

彼女が駆け出しの冒険者として、たった一人で生活を始めたのがイズルードだった。
慣れない風土、見知らぬ人々に囲まれる日々は大変でもあり、また刺激的でもあった。
だが…。

(何故、そんな風に思えるほど余裕があったのだろう…?)

今更ながらに、そう思う。
それは余裕ではなく、ただ無知であったのだろうとも、今なら判る。
戦いに身を投じるという事がどういう意味を持つのか、ずっと考えていなかった。
…いや、考えないようにしていたのだ。
旅の原点に立ち返れば、そもそもフリーテはロリアが冒険者になる事を反対していた。
そして、自分も冒険者になるなどとは微塵も思っていなかった。
剣士になり、ロリアと旅に出てからも、心のどこかでずっと引っかかっていたのだ。

今なら、二人でフェイヨンに帰って…以前のような暮らしに戻れるのではないか。
まだ、元通りの生活を取り戻すのに間に合うのではないか…という思いが。

それが結果、剣士…ひいては冒険者としての研鑽を磨く事への意欲を鈍らせた。
自分が『戦う』側の人間になる事を、心のどこかで否定していたのだ。
あの深夜の戦闘で、そんな自分の弱さと甘さを嫌と言うほど思い知った。

(もう嫌だ…もう逃げたい、死にたくない…って、何度も思ったのに)

まだ、戦うことを選んでいる自分が居る事に、違和感すら覚える。
ただ…ロリアを守りたい。
それは言葉にすれば簡単だが、今の自分には酷く大変な誓いにさえ思えた。
現実は逆で、むしろ『自分がロリアに守られた』という一事が、フリーテの心に重い。
フェイヨンで暮らしていた時とは違う…まるで、生まれ変わったかのようなロリアの強さ。
何時から、彼女は『戦う』側の人間になっていたのだろうか?
今はまだ踏み出せないままの、ロリアとの距離感がフリーテには辛かった。

「ろりあんは…私の事を、必要としているのかな…」

思わず呟いた言葉は、フリーテの懊悩を的確に現していた。

友達だから、仲良しだから一緒に旅をしているのだろうか?
剣を握った自分の決意を、ロリアはどこまで理解してくれているのだろうか?
いざとなったら…彼女は一人でも果敢に戦い、勝利してしまうのではないのか?

冒険者として…剣士としての自分の、ロリアにとっての価値は。
自分が、剣を振らなければならない理由は。
それを強く、心に刻んでくれるような『何か』を…フリーテは渇望していた。

『フリーテ…君の助けが、ロリアには必要なのだ。
 …これからも彼女の傍で、守ってあげてはくれないか?』

あの朝、折れかけた気持ちに勇気をくれた、オリオールの言葉。
だが…本当にそう言って欲しい者は、やはり一人しか居ないのだった。

「…でも、嬉しかった。
 オリオールさんは、優しいですね…」

銀色に輝き始めた海面へ浮かべるように、そっと呟いた言葉。
…その時。

「…フリーテ?今、私の名を呼んだかね?」
「わ、わわっ!?」

突然、背後からかけられた声に…フリーテは心臓が口から飛び出そうなほど、慌てる。

「よっ、よ…よ、呼んでませんっ!お、おはようございますっ!」
「おはよう…そうか、それは失礼。しかし、君も早起きだな」

隣に並び、そんな事を言いながら朝の空気を吸い込むオリオール。
フリーテは驚きと、聞かれたかもしれない恥ずかしさで顔を真っ赤にしたまま俯いた。

「いよいよ、イズルードに上陸だな」
「そ、そうですね」
「しかし…ロリアがあそこまで船に弱いとは思わなかったな」
「そ、そうですね」

件のロリアは、航海開始直後から船酔いしてしまい…以来、ずっと寝たままなのだった。

「まぁ、陸で休めばすぐ良くなるとは思うが…。
 その点、クアト君は経験者という感じだな。船旅も慣れたものだ」
「そ、そうですね」
「…フリーテ、どうかしたのかね?」

フリーテの様子が明らかに変な事に、訝しがるオリオール。

「えっ、いえ、なんでもないです!」

ぶんぶんっ!と頭を大きく振り、ずれた眼鏡を直してから、大きく頷く。

「そうか…これから向かう海底洞窟を思って、緊張しているのだな」
「そ、そんなところです」

どこかちぐはぐなやり取りにも、オリオールは楽しげに笑う。
ようやく胸の動悸が収まってきたフリーテも、硬い表情で笑って見せる。

「まぁ、海底洞窟の事については、あの二人が起きてから話すとして…。
 実はフリーテ、君にひとつ頼まれて欲しい事があるのだが」
「私に、ですか?」
「ああ…色々考えたのだが、現状ではこれがベストだと判断せざるを得ない。
 そして、君の協力を是非に請いたいのだ」
「私に、出来る事でしたら…」

彼にしては珍しい、どこか困ったような口ぶりに絆されたというのが大きかった…が。
自分を勇気付けてくれたオリオールに、恩返しのひとつでも出来るのなら。
そんな風に思い、笑顔で頷くフリーテ。

「そう言って貰えると、助かる。
 驚かないで聞いて欲しいのだが、実は…」

オリオールの前置き空しく、この直後にフリーテは驚きの叫びを上げた。
それが熟睡中のクアト他、船の乗客を叩き起こし…白い目で睨まれる事になるのだった。



「と、とーちゃくぅ…う、ぅぇっぷ…」

イズルードに再び降り立ったロリア。
その顔は、形容し辛いほどに変色していた。

「んもー、まだムリしない方がいいよぉ。
 ダンジョンは逃げないんだから、ちょっと休んだほうがいいって」

クアトがその身体を支えながら、桟橋を歩いていく。
フリーテはロリアの装備を持ち、オリオールはエクセリオンを連れて後に続く。
クアトのカートは、エクセリオンの手綱に繋がれていた。

「バイラン島まで、もっかい船に乗って行くんだよ?だいじょぶ?」
「うぇ…ほ、ほんとに…!?」
「今度の船は快速船で、時間も一時間程だから大丈夫ですよ」
「それも、出航時間までに回復すればの話だがな…丁度良い、あそこで小休止としよう」

オリオールが指差したのは、港の横にある公園。
冒険者達の憩いの場としても活用されている場所で、
かつてフリーテがロリアを待ちわび、ミアンに再会した所でもある。
引きずられるようにして連れて行かれたロリアは、そのままベンチに座らされた。

「何か、飲み物買ってくるよ」

ぽん、と手を叩いたクアトは弾ける様に、連なる露店の方へと駆けて行く。

「クアトさん、すごく気の回る人ですよね」
「そうだな」

その後姿を、微笑ましく見送る二人。
一方、ロリアはベンチにだらしなくもたれ、ぐったりと生気を失っていた。

「まさか、ろりあんがこんなに船に弱いなんて…知りませんでした」
「…わ、私も知らなかったよ…」
「まだ、日も高い。気分が良くなるまで、ゆっくりするといい」

そんなオリオールの言葉にも、ロリアは難しい顔をする。

「で、でも…バイラン島へ行く前に、アイネに連絡しとかないと…うぷっ」
「そんな身体で、フラフラしないでください!
 私が代わりに無事だから心配しないでって、連絡しておきますよ」
「そ、そう…?ありがとう、ふーちゃん」

今の自分が街を歩いて、周囲に迷惑を掛けかねない…という危惧もあり、
フリーテに任せたほうが確実、安全だろうとロリアも思う。

「それじゃ、ちょっとカプラサービスまで行って来ますね。
 オリオールさん、ろりあんをお願いします」
「了解した」
「お願いねぇ…うぅぅ〜」

顔色の悪いロリアに手を振られながら、フリーテは小走りに駆け出した。



カプラサービスは冒険者向けの流通業の一環として、各種文書の配達なども行っている。
簡単な伝言から荷物の運搬まで、独自のワープポータル技術を駆使した商売である。
実際にワープを利用するよりはるかに安価で、かつ送る側にのみ、一般市民も指定できる。
ロリアはこれを利用して、アイネに自分の無事を伝えるつもりだった。

…そして、その代理人としてイズルードの街を往くフリーテは、
カプラではなく、一路剣士ギルドへと向かっていた。

久しぶりのこの港町の風景を楽しむ余裕など無いほど、彼女は考え込んでいた。
あの船上でオリオールから聞いた話が、あまりに衝撃的だったからである。

『…驚かないで聞いて欲しいのだが、ロリアの妹でアイネという娘が居る。
 君は、私より良く知っているかもしれないが』
『アイネちゃん…?はい、仲良くさせて貰っています。
 ここ一年ほどはプロンテラの全寮制学校に入って、滅多に会えませんでしたけど。
 先日の…エアリーさんの事で、久しぶりに会いました…アイネちゃんが、何か?』
『うむ…実は、例のシルバーから聞いた話なのだが…。
 我々がフェイヨン森周辺に居た頃の事だ。
 アイネリア・ガーランド・ヴィエントなる娘が、初心者訓練場を卒業し、
 アコライトを目指して聖カピトーリナ寺院へ入った…というのだ』
『え…え?…ええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇーーーーーーっ!?』
『ふっ、フリーテ、声が大きい…』

…結局オリオールの頼みとは、今この事をロリアが知り得ないよう、協力して欲しいという事だった。

『…いずれ伝えるにしても、心身共にもう少し余裕のある時にしたい。
 今のロリアは外面はともかく、その内心は不安定で揺らぎが大きすぎる。
 彼女の事を言えば、今すぐにでも探しに旅立つと言うかもしれない。
 …だが実際の所、アイネ君の消息は現在判っていない。
 そんな当ての無い彷徨に身を任せては、冒険者としての目的意識すら揺らぎかねない』
『で、でも、アイネちゃんはろりあんの大切な妹なんですよ!?
 伝えれば、きっと…ろりあんは探しに行くと思いますし、私もそうした方が良いと思います』
『…理屈は判る。私とて、同じ立場にあればそうするかもしれない。
 だが、ロリアはただ普通に冒険者をやっていれば良いだけの娘ではないのだ。
 ロスト・エンブレムが応えた以上、彼女には想像も出来ないような運命が訪れるだろう。
 今という時期は、来るべき脅威を戦い抜く為の、大事な時なのだ』
『アズライト・フォーチュン…そんなに、危険なものなのですか』
『判らない…私も、全てを知っている訳では無い。
 ただ、ロリアが紋章に選ばれた…というだけで、彼女に危害を加えかねない連中が居る』
『それが、王国親衛隊…アルビオンの騎士達ですか?』
『どんな形かは判らないが、いずれ必ずロリアに接触してくるだろう。
 その時、戦う力…戦う意思を持っていることは、彼女の身を救う確立を高めるはずだ』
『ろりあんは、自分の身を守るため、戦う力を養うため…それが理由でも、
 今日アイネちゃんの事を知らせなかったオリオールさんを、恨むかもしれませんよ…?』
『…アイネ君の消息は、私の冒険者仲間にも探ってもらっている。
 だが、ロリアはそれでも私を詰るかもしれない…が、覚悟の上だ。
 私は何より、彼女に死んで欲しくないのだから』
『…判りました』
『フリーテ?』
『私も…共犯者になればいいんですね、オリオールさん』
『すまない、フリーテ…』

フリーテは様々な思いを抱えながら…。
いや、ひとつの考えを他の思いで誤魔化しながら、イズルードの石畳を歩いて行く。

アイネは無事だろうか、ロリアはこの事を知ったらどうするだろうか。
本当は伝えるべきではなかったのか、黙ってた自分に対して怒るだろうか…。
そんな思考が巡る中、いつまでたっても消えない、そして大きな疑問がひとつ。

君を守る…オリオールがそう言ってくれた朝を、フリーテは思い出す。
自分自身が弱いからこその言葉だと、今なら素直に受け止めることは出来た。

…だが、オリオールの態度は、いつもロリアに対しては異なっているように感じる。

結果、自分が憎まれてでも…迫りくる危険に抗えるよう、彼女を強くしようとしている。
一見厳しく見えるそれは…ロリアを本当に信頼しているからこそ、生まれる態度ではないのか?
それはオリオールが真剣に、ロリアの事を心配しているからこその厳しさではないのか?

『…私は何より、彼女に死んで欲しくないのだから』

その言葉の真意は、どこにあるのだろうとフリーテは思う。
まだ若い冒険者だから?紋章に選ばれた者だから?親衛隊という強敵に狙われているから?
どれもしっくりとこない中…フリーテは自分自身、下世話だと思う感情を拭う事ができない。

(…ろりあんの事を、特別に想っているから…?)

漠然とした思いを頭の中で形にしただけで、ぽっとフリーテの頬が染まる。

「…だ、だったら、何なんですかっ…私は、もうっ」

思わず、謎の独り言までこぼす。

(今の自分は、剣士として頑張らなきゃいけない!
 ろりあんに認められるような、オリオールさんが安心してくれるような、強い剣士に…!
 余計な事なんて考えてる暇は無いんです!)

…しかし、そう思えば思うほどあの二人の関係が気にかかり、
あらぬ想像をする度に、自分を叱る…おかしなフリーテなのであった。



「おかえり、ふーちゃん」
「お疲れー」

フリーテが公園に戻ったときには、ロリアの様子もかなり良くなっていた。
三人、手にフルーツジュースを持ってベンチに並んでいる。
自分の分は無いのかな…と思いつつも何となく聞けないフリーテに、ロリアが先に口を開いた。

「ふーちゃんが連絡してくれたなら、アイネもきっと安心するね」
「え、ええ…だと良いのですけど」

無論、フリーテはアイネに連絡などしていない。
代わりに剣士ギルドに赴いたのは、本当にアイネが冒険者になったのか、
そして事実ならばその後、どうしているのかの情報を得んが為である。
シルバーに聞いたというオリオールの話を疑った訳ではないが…。
やはり、にわかには信じがたい衝撃があったのだ。

そして、ロリアとフリーテには残念な事ながら…全て事実である事が確認された。
剣士ギルドは現在、精力的に募集を行っている十字軍に優秀な人材を紹介している事もあり、
王国正教会とその傘下である聖職冒険者協会…いわゆる『聖職者ギルド』との間では、
情報交換の精度と速さにおいて、職業間一と言えるだろう。

もたらされた情報によると、アイネが初心者修練場へ入ったのは、
ロリア達がアルベルタへと旅立ったおよそ一週間後であった。
まださすらい狼の脅威も知らず、のんびりと旅してた頃である。
そして聖カピトーリナ寺院で約一週間、神聖魔法の初歩を学び出立した…。
この情報が確かなら…アイネは既に冒険者として、旅をしている事になる。
フリーテはアイネの、その恐ろしいまでの即決即断に呆れつつも、また彼女らしいとも思った。

考えてみれば…ロリアはおろか自分まで剣士になり、こうして冒険者をやっているのだ。
『あの』性格のアイネがそれを聞き、地団駄を踏むくらいで済ませる訳が無い。
最初に手紙を送るとき、ロリアはそう思わなかったのだろうか…という疑問も生じたが、
その時はその時で、ロリア自身いっぱいいっぱいな部分もあったのだろう。
ただ決意と事後承諾を妹に求めるのに夢中で、それを彼女が読んだらどう感じるのか…?
そこまでは、思い至らなかったのかもしれない。

…とすれば、『冒険者・アイネ』出立の原因を作ったのは他ならぬロリアであり、
この事を聞けば彼女自身の責任感のままに、すぐさま追走の旅路になるに違いない。
フリーテはその方が良いのではないだろうか…と、今も思う。
自分もアイネが心配であり、一刻も早く無事を確かめたいという気持ちがある。
そして同時に、纏まりつつある海底洞窟での修練の気勢を、削ぐべきではないとも思う。
あの深夜の戦い以降、吹っ切れることが出来ない自分とロリア…そして、新しく仲間になったクアト。
まだ、どこか噛み合わない三人の今後の為に…オリオールはこの機会を提案したのだろう。

結束も信頼も半端なこの面子が今、慌ててドタバタとアイネ探索に向かう…。
当ても無く、確たる信頼も無く、ただ焦り…時間ばかり浪費してしまうかもしれない。
そういうオリオールの危惧は、フリーテにもよく理解できた。
それでも…ロリアを騙すような行為に、どこか気の重さを覚えていた。

「はいこれ、冷たいよー」
「あ、ありがとうございます…」
「…で、パーティーのリーダーは誰な訳?結局アルベルタからこっち、決まってないけどさ」

フリーテにフルーツジュースを渡しながら、クアトは全員に問いかけた。
バイラン島行きが決定して以来、オリオールはロリアをリーダーに指名し、
自分はあくまでサポートに徹する…という主張を崩そうとしなかった。
肝心のロリアは完全に腰が引けてて、オリオールかクアトに譲りたがっていた。
また、クアトは自分がこの面子の新参者である事を良く理解しており、
一歩引いた上で冷静に、ロリア達の力量を見たいと思っていた。
もっとも…冒険商人が戦闘パーティのリーダーになるという話自体が、異質であるのだが。

無論、ロリアもクアトも『それならフリーテをリーダーに』…と思わないではなかった。
しかし、近接戦闘者に指揮を望むのなら、オリオールの方がはるかに適している。
ロリアにしてみれば、あの一戦以来…戦えなくなったフリーテを目の当たりにしているが為に、
リーダーなどというプレッシャーを与えては、さらに臆してしまうのではないか…と思える。
こうして自分の旅に付き合ってくれるだけで、ロリアにとっては嬉しく、
これ以上フリーテに何かを望むのは、酷なのではないか…とさえ考え始めていた。

…そんな四者の考え方が平行線のまま船に乗り、
さらにロリアが船酔いでダウンしてしまったお陰で、話が纏まる余裕も無かったのだ。

「わ、私は…リーダーなんて、無理…」

誰かに何かを言われる前に、思わず呟いてしまうロリア。
だが、すっくと立ち上がったオリオールは、そんな彼女のか細い声を消すかのように、高らかに提案した。

「うむ…こういう時は、もっとも簡単かつ民主的で、誰もが納得する解決手段がある」
「え、なにそれー?」

目を丸くするクアトに頷きながら、オリオールは言った。

「…多数決、だ」



ロリアは小気味良く波を切る高速船のデッキで、頬を膨らませていた。

「…なーに?まだ、怒ってるの?」

その様子に苦笑いのクアトが近づき、横に並ぶ。

「だって、みんなズルいよ…あんなの出来レースだよ。オリオールさんの罠だよ」

ある意味では、ロリアの言うとおりだった。
『多数決』宣言の後、間髪入れずオリオールはロリアに一票を投じた。
自分がリーダーじゃなければいい、とクアトも便乗一票。
オリオールの意図を知っているフリーテは彼に入れる訳にはいかず、その場の空気もありロリアに。
…今までの話し合いは何だったのかと思うほどの、わずか数秒の出来事だった。

「みんな、自分がリーダーの責任から逃れたいからって…ずるいよ」
「責任…ねぇ」
「自分の判断が間違えていたせいで、大切な仲間が傷ついたら…!
 私、この前の戦いで…自分の復讐心だけで、ふーちゃんを危険な目に遭わせて。
 自分の実力も見誤って…可笑しいよね、だってアーチャーなのにナイフで戦ってるんだもん、私。
 思い描いていた戦い方なんて、何も出来なくて…気付いたら、ふーちゃんが居なくて…!
 もう…あんな思い、したくない…」
「………」

ロリアの顔が悲痛に歪んだ。
『誰かを助ける為』にと、その為の力を得るための旅…そして、冒険者という職。
しかし…その為に仲間を、大事な人を傷つけてしまうのは許されるのか?
見知らぬ誰かを、魔物の脅威から助けたい…というのは、ロリアの個人的願望だ。
その願望を叶える為に、自分だけでなく仲間の命まで賭けるというのは…。
それは、とてつもなく恐ろしい傲慢ではないか…と、ロリアは思い始めていた。

「…それじゃさ、もしリーダーじゃなかったら?」

と、クアトが静かな声で問いかける。

「…え?」
「自分がリーダーじゃなければ、判断した事じゃなければ、
 仲間が倒れても…それは、自分のせいじゃないって思えるの?
 一緒に戦っていたのに、自分に落ち度は無かった、リーダーの指揮が悪い!って…大声で言える?」
「あ…そ、それは…」
「あはっ…言えないよね。
 私はね、ロリアがそういう娘だって思ったから…一緒に行こうって、決めたんだよ?」
「ク、クアトさん…」
「まぁ、私の一方的な思い込みかもしれないけどさ。
 誘ってくれた側にも、少しは応えてくれる義務があるんじゃないかなー…なーんて、ね」

ロリアは頬を染めながら、決まり悪そうに俯く。

「そういうロリアなら、リーダーであってもなくても大して変わらないじゃん!運命だと思って、諦めちゃえ」
「運命…かぁ。なんか、割り切るには曖昧すぎるモノだよね…」

はぁ、と溜息をひとつ吐きながら、手すりにもたれるロリア。
今は頼りなさげな背中を、クアトは見詰める。

クアトは冒険者として、誰かと共に戦った事は一度も無い。
常に孤立無援、たった一人で戦場を駆けて、それがあたりまえの営みの日々に居た。
だから、集団戦闘においての指揮能力…それがどう、戦況を左右するかの重要度など判りはしない。
それでも『人を信じる』事に、絶対的な指標は存在すると確信していた。

それは、自己の中に絶対的な正義、そして倫理観を持っているという事。
さらに…それを行使する為に、決して臆さない勇気を備えているという事。
自分とディータ達が揉めてる最中…割って入ったロリアの姿に、クアトはそれを垣間見たのだ。

…だから、彼女に従い戦う事に全幅の信頼を置く…。
というのは、さすがのクアトも甘すぎかな、と自分自身思わないでもない。
だが、こんなご時世で…そうしてみたい、そうさせようと思わせる存在に出会った事。
今は、あらゆる思いよりも、その事実の方がクアトの『納得』の理由になっていた。
現に、自分は慣れ親しんだアルベルタを離れて…こうして、彼女の隣に居るのだから。

「はぁー…」

ロリアはそんなクアトの気も知らず、またひとつ溜息をついた。



およそ一時間後。
一行はバイラン島海底洞窟の入り口より、第一層に侵入していた。

「中は随分、涼しいんですね…」
「足元が濡れていて滑りやすい、注意したまえ」

初めて訪れたロリアとフリーテは、物珍しそうに周囲を見回す。
洞窟…というよりは、地下に広大な広場があるかのようだった。
あちこちに大きな潮溜まりが連なり、水鏡のように天井を映しこんでいる。
所々に照明が用意されているのは、ここに人の足が入って久しい証拠である。

「オリオールさん、ここは天然の洞穴なんでしょうか?」

フリーテが口にした疑問は、ロリアも思った事だった。
この海底洞窟の造りに、人為的な匂いを感じる…と。

「うむ…この洞窟の誕生は、二十数年前に遡る。
 元々、この周辺はバイラン地方と呼ばれ、漁業が盛んで自然豊かな土地だった」
「聞いたことがあります。
 何でも、天変地異で突然大地が割れ崩れ…いくつかの島を残して水没した、と。
 私やろりあんが生まれる前の話ですね」
「うむ…その為、プロンテラとイズルードを合併する巨大首都計画も頓挫したと言われる。
 酷い有様だったらしい…聖カピトーリナ寺院東には、その時の傷跡が断崖絶壁となって残っている。
 そして、大地崩壊の中心に当時ルーンミッドガッツ王国最大の神殿があった」
「神殿…?」
「海の底に引きずりこまれるようにして消えた、大神殿…そこには、何か重要な『神器』があったのだと言う。
 やがて崩壊が落ち着くと、王国の命によりバイラン島より地下へと向かう通路が掘り進められた。
 失われた神殿の跡地へと向かい、神器を回収せんが為に、な」
「なるほど、それがこの洞窟なんだ…」
「あはは、何回か来てるけどそんな話は知らなかったよ」

納得顔のロリアと、能天気に笑うクアト。
フリーテは少し考えた後、再び口を開く。

「…それで、神殿は発掘されたのですか?」
「ああ…この洞窟の下、第四層から五層にかけてその一部を見ることが出来る」
「神殿かぁ…ちょっと見てみたいな」
「止めておいたほうがいい」

声を弾ませるロリアに釘を刺すように、オリオールはぴしゃりと言い放った。

「調査の為に多くの騎士が乗り込んだが…帰って来た者は、少なかったらしい。
 神殿周辺は強力な魔族の巣窟だ…今の我々では危険すぎる」
「そ、そーなんですか…」
「二年程前から公式の調査隊派遣が打ち切られたのも、魔物の強力さ故だ。
 …その為、我々冒険者に解放されたのだがな」
「私もちょこーっと覗いたコトあるけど、四層より下はまた別世界だったよ。
 ま、触らぬ神に祟りなしって言うしねー」

うんうんと頷くクアト。
ロリアはちょっと悔しそうだったが…オリオールの警告を無視してまで行こうという気は、
さすがに起こるべくも無かった。

「神器、というのは見つかったんでしょうか…?」

オリオールに、呟くように問いかけるフリーテ。

「…発見された、という話は聞いた事が無いな。
 だが…見つかったからこそ調査を打ち切り、この場を冒険者に開放した…という考え方もある。
 一部の猛者達はいまだ海中に眠っていると信じて、探求を繰り返しているらしいが…。
 そもそも、神器の正体すら判らない現状では、探しようもあるまいよ」
「それもそうですね…」
「さて…まだまだ、目的の第三層までは歩かねばならない。出発しよう」

オリオールの号令に、全員が頷く。
海底洞窟の冒険は、まだ始まったばかりだった。



第三層までの旅路は、比較的穏やかに進んだ。
ロリアの戦闘力はこの領域の敵相手ならば、容易に倒せるほどに成長していたし、
クアトも何度か訪れた事があるだけに、場慣れした戦いぶりを見せた。
不測の事態に備えつつも、積極的に手を出そうとしなかったオリオールだったが
まずは力添えの必要性もなく、そんな二人の様子を見守るに留まる。

ロリアやオリオールにとって、もっとも嬉しかったのは…フリーテが剣を抜いた事だった。

およそ戦意すら見せなかったアルベルタまでの旅路に比べれば、その振り絞られた勇気の様が想像出きる。
まだ、どこかぎこちなく…焦りと蘇る恐怖を抑えるのに必死ではあったが。

オリオールは敢えて言葉を掛けず、力強い視線だけを向けていた。
しかし、これは今のフリーテには逆に、プレッシャーを増す要素になりつつあった。
自分を鼓舞してくれた人に、無様な姿は見せられない…生真面目なフリーテらしい感じ方である。

そして、ロリアは彼女をこうも戦いに怯えさせてしまった原因が、自分にあると認識している。
それ故に、励ます資格が無い…と思い、フリーテの様子を気にしつつも、意識する事を躊躇っていた。

「ふーちゃん、無理しないでいいからね」

よって、自然と出るのはそんな優しくも、労わるような言葉になる。
フリーテも頷くが…それは自分が戦う者、彼女を守る者として『信頼』されていない事だと理解し、
ともすれば理想と現実の距離感に戦意を萎えさせそうで…これに耐えるのが当面、一番苦しい事に思えた。

戦いの空気に包まれると…あの夜の恐怖が、蘇えりそうになる。
視界が闇の霧に閉ざされ、一人になる幻想。
見えないどこかから、恐ろしいほどの邪気が襲い掛かり、身体にまとわりつく…。
フリーテはあの夜以来、自分が狼の『呪い』に囚われてしまったかのようにさえ、感じられる。

そして、海底洞窟地下深くへ潜っていく…というこの旅路は、
まるで死の淵へと、自ら降りて行く行為を錯覚させるのだった。

(怖い…!逃げたい…!戦いたくない…!)

心の中で、悲鳴を上げ続ける…もう一人の自分。
『彼女』に身体を委ねたら、今すぐ剣を放り投げ、走って引き返してしまうかもしれない。

だが…それをかろうじて押しとどめているのは、今目の前に居るロリア。
その存在、その姿そのものだった。
彼女を守りたいという、原初にして純粋な、それゆえ儚くも残り続ける思い。
これを捨てれば、ロリアだけでなく…オリオールも、そして自分自身をも裏切る事になる。

…大好きな人たちを、裏切る事。
まさに、それが魔物と戦う事より怖いが故に、フリーテはありったけの勇気で剣を振る。
しかし、今はそんな自分自身の思いにさえ、気付く余裕も無いのだった。



イズルード・バイラン島海底洞窟、第三層。
長い階段を下りた先は、それまでの洞窟じみた空間から様相が一変していた。
まず、ロリア達の目を奪ったのはその天井の高さ。
これまで頭上に見えていた岩肌が、闇に溶けて見る事ができない。
それほどまでに広大な空間が、眼前に広がっているのだった。

「ち、地下にこんな広い洞窟があるなんて…」
「私も最初に来たときは、驚いたよー」

驚きを隠さないロリアに、クアトが頷く。

「ね、オリオールさん。これも何か曰くがあるの?」
「うむ…ここは元々の第三層が落盤し、第四層と一体になってしまった空間だ。
 つまり、本来の海底洞窟は全六層で構成されていた」
「へぇー!それも初耳だよ」

クアトは顔を綻ばせるが、オリオールの表情は硬い。

「神殿の発掘を目指して、第四層を掘り進め始めた王国の作業員達は驚いた。
 …ちょうど、埋もれた神殿の瓦礫が出始めた頃だったという。
 地割れに巻き込まれ、地中に閉じ込められた者達の遺体が出始めた…」
「…!」

その口から飛び出した過去に、さすがのクアトからも笑顔が消えた。

「神殿に居た神官や巫女、聖職者達は軽く二百人は居た。
 それ以外にも周辺の住人や、偶然この地に居たもの…総数は千人とも、二千人とも言われている。
 とにかく、おびただしい数の遺体が発掘され、一時は神殿どころでは無かった。
 可能な限り多くの遺体を収容しようと、ことこの層は広範囲に発掘作業が行われた。
 まさしく四方八方、手当たり次第…ある意味、死者に手を引かれたのかもしれないな」
「無計画に掘り進めてしまって、落盤を招いた…という事ですか」
「この事故での犠牲者も多く、元通りの発掘再開に半年掛かったと聞く。
 だが再開早々に第四層…元神殿跡の周辺に、強力な魔物の姿が現れ始めた。
 度重なる災事の連続に、さすがの王国も及び腰になってしまったと聞くが…」
「結局、神殿で何も見つからなかったのなら…報われない、話ですね」

フリーテが寂しげに呟いた。
この巨大な空間が丸ごと、墓場だったと思うと…肌を刺す冷気にすら、痛みを覚えそうになる。

クアトは背負ったバックラーを外し、左腕に装着する。
右手には、戦闘用の鎚…ハンマーと呼ばれる武器を握る。
と…戦闘用意を整えながら、立ち尽くしたままのロリア達に向き直った。

「ちょっとちょっと、観光旅行に来たんじゃないんだからさ。早くアタマ切り替えないと、この階は危ないよ?」
「え?…あ、そ、そうだね」

ロリアには、クアトの言葉の正確な意味は判らなかったが、
戦う準備をしなくてはいけない…その点が正しい事は理解できる。
構えたクロスボウに矢を装填しながら、ちらりとフリーテの方を見る。
…抜刀した剣の柄を握り締め、厳しい表情で切っ先を見詰めている。
無骨な小手に包まれたその両手は、小さく震えているように見えた。

(ふーちゃんに…もうこれ以上、戦いを強いてはいけないのかもしれない。
 仕方ないよね、普通の女の子が冒険者になって…魔物と殺しあうなんて、
 そんな事、普通出来っこないよ…)

この時、ロリアは自分には『出来てしまっている』事に対しては、失念している。
…フリーテを冒険者へと誘ってしまったのは、他ならぬ自分だ。
危険な目に遭わせ続け、恐怖の虜にしたのも自分。
ロリアはこの海底洞窟の冒険の結果次第では、後ほどフリーテと話し合おうと思っていた。

アルベルタからこっち…少しは元気を取り戻したかのように見えたが、
根強く植えつけられた恐怖心を払拭するのは、そう簡単な事ではない。
ロリア自身でさえ、あの夜の戦闘を思い出すと冷や汗が出るのだ。

…どこか戦いに戸惑いを感じたままの、今のフリーテを連れて旅を続ける…。
それは彼女自身にとっても、自分達にとっても、ただ悪戯に危険を増やすだけの行為に違いない。
ましてや、二人旅ならそれでも良いかもしれないが、今はクアトという仲間も居る。
今のフリーテの様子を見ても、クアトは何も言わないが…内心、訝しがっていても当然なのだ。
そして何より、フリーテの無事を一番に願うならば、ロリアの取るべき道はひとつしか無いように思えた。

(ここを出るまでの辛抱だから、ふーちゃん…私が守るからね)

心の中で、そう決心を固めた時だった。

キェェェェ…!

どこか遠くから、人のものとは思えない…甲高い悲鳴が流れてきた。
四人は一斉に、声の聞こえた方を振り向く。

「北西の方だ!」

クアトがポケットから方位磁石を取り出し、確認する。

「…どうする?」

ロリアに向かって、投げかけられる問い。
それが『パーティーリーダーの判断』を訊いているのだ、と理解するのに
ロリアは暫くの間、クアトと見詰め合うほどの時間を要した。

「えっ!あー、えっと…どうしようかな…」

オリオールの方へと、視線だけを泳がせながら助けを求める。

「………」

ロリアの自主性、そしてリーダーとしての資質を養う為にも、自分は余計な手助けはすまい…。
そう思っているオリオールだが、さすがに最初からこうも突き放してしまうのは
少々手荒すぎるかもしれない…などと感じてしまう。

それと言うのも、ロリアの補佐役としてのフリーテの位置付けに期待していた面があり、
このような場合でも二人、それにクアトも交えて方針を決めてくれれば…と考えていたのだが、
結果として、フリーテは自分自身の戦意維持に精一杯だった。

「魔物か、あるいは我々以外の冒険者か…いずれにしても、確認すべきではないか?
 クアト君も言ったが、我々は何も洞窟見物に来たのではない。
 魔物が居れば戦わねばならない、危機に陥った者が居れば助けなければならない…。
 君にとっては、そういう旅なのだろう…ロリア?」

オリオールの言葉は、ロリアの迷いに確かな道標を与えた。
自分が何の為に冒険者になったか、何の為にここに居るか…。
時に、目の前の恐怖や不安で忘れそうになる、この道を選んだ瞬間の熱い気持ち。

(そうだよね…お母さん。私、こんな所で戸惑って…立ち止まってなんか居られない!)

胸元に隠れた蒼い護符を、服の上から握り締める。
それは不思議な暖かさと共に、勇気をロリアに与えてくれるようだった。

「声の聞こえた方へ、行ってみましょう!
 臨機戦闘の準備、クアトさんは前衛をしつつ道案内をお願い。
 ふーちゃんと私は中衛で左右警戒、オリオールさんは後ろをお願いします!」

凛とした声で、指示を出すロリア。
言ってから、これで良かったのだろうか…などと、不安が湧き上がる。
だが、全員が頷くのを確認して、少しだけ安堵した。

「ま、ここは私の方が慣れてるからね!任せなさいっ!」

クアトが意気揚々と先頭に立つ。
無論、こういう場合の前衛は本来、剣士や騎士の役目なのだが、
今回は経験を買う、という形で…ロリアとクアトは互いに無言の内に、落とし所を図った。
もちろん、フリーテの戦力に疑問があるという事に対して…である。

「ふーちゃん…ここは初めての場所だから、何が起きるか判らない。
 最悪、自分の身だけでも…守れるよね?」
「…は、はい、大丈夫です…」

優しく問いかけるロリアに、フリーテは頷くしかなかった。
ここで、自分すら守れないなんて弱音を吐ける訳が無い…たとえ、自信が無いとしても。

「………」

オリオールはそんな三人の様子を黙って見守りながら、後方の守りに回る。
もし、ここでの戦闘があの夜の森の二の舞になったら…フリーテはおろかロリアでさえ、
立ち直れないほどの精神的なダメージを受ける事になるかもしれない。

(私は、彼女らに強くなって欲しいと思う余り…焦りすぎて、無理をさせようとしているだろうか)

いざとなれば…命を賭してでも、彼女らを守る。
それがフリーテに捧げた誓いでもある。
だが、それすら過信に感じてしまう程…オリオールは何処か、言い知れぬ不安感を覚えていた。



海水を跳ね飛ばしながら、小走りで四人は進む。
所々にある吹き溜まりに足を取られ、思うような速さで進めない。
ロリアは足場が悪い…という事を、これほど意識する戦場は初めてだった。
跳ね水か、汗かも判らないままに、服が湿気を帯びていき、身体が重い。
不快感を気力だけで跳ね除けながら、前進した先から…やがて金属音が聞こえてきた。

「戦闘音だ!」
「…誰か、戦ってる!?」

激しい剣戟の音。
やがて、ぼんやりとした灯りの影が大きくなり、その姿が一行の視界に入る。

「…!?」

ロリアは絶句し、思わず歩みを止めた。
同様に、フリーテも息を飲んで硬直してしまう。
そこでは二人の騎士が、険しい表情で防戦をしていた。
その周囲を、オボンヌと呼ばれる魔物が…少なくとも、四匹が取り囲んでいる。

「…苦戦しているのか?助けに入るべきか…」
「お、オリオールさん、あ、あれ…」

戦況を睨むオリオール。
その甲冑の裾を、ロリアは震える手で引っ張る。

「?…どうしたというのだ、ロリア?」
「あ、あれ…ヒト、じゃないですか…!」

オボンヌ…半人半漁の姿を見て、ロリアは形容しがたい衝撃を受けたのだ。
今まで魔物と言えば、およそ人間からはかけ離れた…伝説で語られるような、奇異な姿。
そんな、言葉どおりの『魔』である者達だと思っていた。
だが、目の前の人魚…その腰上のシルエットは、どう見ても人間にしか見えない。

「落ち着きたまえ、ロリア。あれは人間ではない、只の腐った魚だ」
「で、でも…!」

たじろぐロリアを…一匹のオボンヌが察知し、身体を揺すりながら向き合おうとする。
じゅぐ、じゅぐ…と嫌な音を立てて動くその身は腐敗しており、肉が削げ、骨すら突き出して見える。
均整の取れた女性…そう見えた上半身も似たようなもので、フリーテは思わず目を背ける。
腐った乳房が揺れるが、いつ崩れ落ちてもおかしくない。
そして、一行に向ける…妖しい真紅の眼光は、まさに『魔物』のそれであった。

「…奴等はかつて大神殿に仕えた巫女たちの魂を、弄んでいるのだ。
 腐肉に押し込められた彼女らは、苦痛に絶叫し…やがて、魔と同化する。
 心の理性を売り渡すしか、痛みから逃れる術が無いからだ。
 かの魔物…オボンヌを倒す事は、そんな彼女らの魂を開放する事に繋がると思いたまえ」
「え…!?そんな…そんなのって…!」
「ロリア、『魔族』とはそういう行為を楽しんで行う連中なのだ。
 生ある者を蹂躙し、果てはその魂までも自分達の物にしようとする…。
 これから冒険者を続けていけば、より凄惨な現実と…おぞましい存在を見る事だろう。
 君が、ただそれを怖がるだけの少女ならば…」
「いえ…大丈夫です、オリオールさんの言うこと…判ります!」

ロリアの内の中に、ふつふつと湧き出る感情。
天災…などというものに理不尽に命を奪われた、若い巫女達に対する憐み。
死してなお、その魂を悪戯に弄ぶ存在に対する…激しい怒り。

(そうだ、相手は…人間じゃない。
 私達とは相容れない、まったく別世界からの侵略者なんだ…!)

「あの二人、危ないよ!」

クアトの声に、オリオールが一歩前に出る。
六人で戦えば…この数相手でも何とかなるだろう、と共闘を呼びかけようとしたのだ。
…ところが、その瞬間だった。
ちらり、と焦りの表情でこちらを一瞥した騎士が…その姿を消したのだ!

「え…!?」

突然の事に、目を丸くするロリア。
だが、オリオールは舌打ちをすると、その背からツーハンドソードを抜刀する。

「マジックアイテム…『蝿の羽』、だ。
 短距離だが、テレポートの魔法を使うことが出来る。
 確かに緊急離脱用のモノだが、我々が居るこの場で使うとはッ…!」

事態を飲み込めなかったロリアとフリーテだったが、次の瞬間…オリオールの舌打ちの意味を知る事となる。

「来るよッ!」

オリオールに並んで、前に出たクアトが叫ぶと同時に。
獲物を見失ったオボンヌ達が新しい獲物を見つけ、今まさに殺到しようとしていた。
…すなわち、ロリア達の方へと。

ザシュッ!!

予想以上の速さで迫る一体を、上段に構えた剣で袈裟切に裁つオリオール。
大剣が帯びている風の精霊が水に反応し、激しい光を散らす。
ロリアはその後方から、クアトに迫る一体に狙いをつけた。

「クアトさんっ!」

ロリアがクロスボウを構えるのを見て、クアトは慌ててバックステップする。

ダンッ!!

それを追って急進してきたオボンヌの左目に、矢が突き刺さる!
人型を為す物体が発するとは思えない、奇異な絶叫が響く。

「うりゃあぁー!」

動きを止めた所へ、クアトが果敢にも突進する!
勢いに任せて振り上げたハンマーは、オボンヌの腹部を直撃した。
バキバキッ、と嫌な音を立てて割れる腐った身体。

振り返り、にっ…と笑うクアト。
ロリアも頷くが、すぐにその表情は険しく変わる。

「く、クアトさん、危ないッ!」

また別のオボンヌが、彼女に襲い掛かろうと迫っていたのだ。
クアトは慌てて距離を取ろうとするが…。

「えっ…!?」

足が動かない!
先ほどハンマーの一撃で倒した…そう思ったはずの、オボンヌ。
だが、二つに割れた身体の上半身だけが、いまだ蠢いていたのだ!
そして、クアトの足を掴み、なおも迫ろうともがいている。

ロリアは地面のそれに照準するが、クアトの足を撃ちかねない事に躊躇してしまう。
その間隙にもう一体のオボンヌが迫るのを、二人共に対処できなかった。
ガツッ!
その腐った手が、クアトの首筋を的確にわし掴む。
見た目より力のある化け物が、足を掴む死にかけの上半身ごと…クアトを持ち上げた。

「…く、うッ!」

クアトはこの地の経験者と言っても、オボンヌを二体以上同時に相手にした事は無い。
自分の力量をきちんと計り、苦戦を免れないと知っていたからだ。
だが、今は…状況に流されつつあるとはいえ、戦わねばならない時なのだ…と悟っていた。

(誰かと…一緒に、戦うってさ…良いものだって、思いたい…からッ!!)

ずっと一人で戦ってきたクアトにとって、それを理解する為には…ただ実践してみるしかない。
言葉や理論より、行動の人らしい考え方であった。

その頭部を食いちぎろうとばかりに、オボンヌが巨大な口を開く。
漂ってくる腐臭に、クアトは思わず眉をひそめた。
そして、左手のバックラーを、腕を振って外そうと試みる。
がらん、と地面に落ちると同時に…クアトの左手が素早く動いた。
バキッ!
迫るオボンヌの頬に、強烈なパンチが炸裂した!

一瞬…ぐらりと揺れた魔物の隙を、ロリアは見逃さない。
クアトへの誤射を避けるために、当初のフォーメーションも無視した距離まで接近していた。
ダンッ!!
放たれた矢は、オボンヌの左肩へ直撃する。

「ギャァアアァァアアァッ!!」

壮絶な悲鳴を上げるやいなや…抱えていたクアトを、まるでゴミのように投げ捨てる。
ドサッ!
クアトはそのままゴロゴロと転がり、地面から突き出した石柱に激突して、ようやく動きが止まった。

「く、クアトさんっ…!?」

心配げに声を荒げるロリアに、大丈夫だ…と、小さく手を振る。

「ふーちゃんッ!クアトさんの援護を…!?」

振り向いたロリアの目に、信じがたい姿が写し出される。
フリーテは、手にしていたはずの剣を取り落とし…膝を付いて、がくがくと震えていたのだ。
呆然とした表情には、戦意を取り戻し始めた影すら残っていない。
あの夜…さすらい狼の下で、恐怖に飲み込まれた時の、そのままの姿があった。

「ふ…ふーちゃぁんッッ!!」

ロリアの絶叫!
だが、フリーテは何の反応も示さずに…歯を鳴らし、定まらない視線を泳がせるばかりであった。
オリオールも二体目のオボンヌに、止めを刺しながらその様子を見ていた。

(くっ…ここに来て、なんという事だ…!)

三体を倒し、一体は手負い…。
フリーテが戦えずとも、勝機が見えたかに感じるが…そう甘くはない事をオリオールは知っていた。
ズルズル…と地面を這いずり、迫る新たな音が二つ。
この戦いの音…空気を察知して、新たなオボンヌ達を呼び寄せつつあるのだ。

「ロリア、フリーテは私が援護する!
 油断するな!奴等、まだまだ増えるぞッ!」

フリーテの様子に心奪われながらも、頷いて見せるロリア。
そして、その意識は先ほど手傷を負わせた一体に向けられる。
ダメージを負っているとは思えないほどの速さで、手を伸ばして彼女を捕まえようとする!
ロリアは小刻みに避けながらも、クロスボウの矢を番えるのに必死だった。
矢のセット自体は簡単なはずの弩だが、初の実戦使用でまだ慣れていなかったのだ。

「!」

セットが終わると同時に、彼女の首元めがけて魔手が迫る。
ザクッ!!
…だが、それを素早く抜いた左手のナイフで受け止める!
獲物の首を狙ったはずの手が、肘まで二つに裂かれた魔物は…一瞬、動きを止めた。
そして、ロリアはその隙を見逃さない程に、成長していた。

「くっ…!!」

右手に握ったクロスボウの先がオボンヌの顎に突きつけられ…トリガーが引かれる!
ドンッ!!
強力な弦に弾き出された矢は、凄まじい衝撃で…その、腐りかけの頭部を粉々に破壊した。
以前使っていた、通常弓では出来ない戦法。
弓矢で接近戦をする…という、ある意味矛盾する戦い方を、ロリアは実戦でやってのけたのだ。
オリオールが彼女には弩が合う、と見立てたのは正しかった事が証明されたと言える。

(…この状況下で、よくもやる!)

オリオールは苦境にあって、なお戦闘力を増すロリアのセンスに舌を巻いた。
戦うことが好きか嫌いか…などとは、この際関係ない。
間違いなく『戦闘』に順応し、経験と共に成長する身体と精神を持ち合わせている…そう、確信した。
…それがロリアにとって、幸福な事なのかどうかは判らないが。

「西から二匹…こちらは任せろ、ロリア!」
「はいッ!」

オリオールの声に、頷く。
戦いの中で覚悟を決めた…あどけない少女ではなく、戦士の顔で。

「こっちも一匹…いや、二匹!来ます!」

ロリアの声と共に、洞窟の暗がりからまた…新たなオボンヌの迫る音が聞こえる。
その姿を確認次第、矢を放つべくロリアは照準した。
…と、その横にクアトが並ぶ。
落としたバックラーを拾いながら、不敵な笑顔を見せた。

「クアトさん、大丈夫!?傷は?」
「はは、あのくらい日常茶飯事!」

そう言いながら、鞄からポーションを取り出して、飲み干す。
正直な所を言えば、かなり無理をしているクアトであったが…ここで弱音を吐くわけにはいかない。
その戦意が彼女の四肢を震わせ、駆り立てている。

「それより、彼女…大丈夫なの!?」

フリーテの方をちらと見て、訝しげな声を上げる。
動きがぎこちなかったとは言え…この局面で、いきなりあの有様なのだ。
事情を知らないクアトが不安に思うのも、無理は無い。

「大丈夫…オリオールさんが、何とかしてくれます」
「…了解!とにかく、数を減らさないとね!」

ひとまずは頷いてみせる、クアト。
唇を舐めて、ハンマーを下段に構える。
そう…動けないフリーテを守る為にも、数を減らさなければならない。
ロリアとクアトは語らずとも、戦況分析が一致していた。

「姿が見えたら、私がニ連射するから…それから突撃して、そのまま後ろへ回って!」
「挟み撃ちって訳ね…あはっ、リーダーらしくなってきたじゃん?」
「…そういう言い方、嫌いですッ!」

ダンッ、ダンッ!!
そう言うと同時に、ロリアが矢を放った。
視界の先、石柱の影から現れた二匹のオボンヌ。
先に現れた方の首と胸に、立て続けに矢が突き刺さる。
それでも怯むことなく、ロリア達の方へ向かって突進してくる!
それに合わせて、クアトが弾けるように突撃した。
バックラーを前面に構えて、体当たりをする勢いで突っ込む!

ロリアが矢を当てたオボンヌが、憤怒の表情で腕を振り上げた。
ドカッ!!
その脇をすり抜けたクアトのバックラーが、弧を描いて飛んでいく。
そして…突然現れた『敵』の姿に、もう一匹のオボンヌは完全に反応が遅れた。

「でやぁぁぁ!!」

両手で握り締め、渾身の力を込めて振りぬかれるハンマー!
だが、オボンヌの頭部を狙った一撃は位置が逸れ、左肩へと衝撃が襲う。
グチャッ!!
肉を引き裂いたには鈍すぎる音と同時に…その肩、そして腕、胸までが粉々に飛び散った。

余った勢いに地面を転がりながらも、体勢を立て直すクアト。
その表情には、してやったりの微笑が浮かぶ。
二匹のオボンヌはクアトに襲い掛かるべく、身を翻した。

ドッ!!

だが、先に矢が突き刺さったオボンヌに…さらに新たな矢が、突き刺さる。

「あなたの相手は、こっちよッ!」

『敵』を一体倒し、クアトとのやり取りを経て、ロリアは戦いの空気に心身を馴染ませていた。
研ぎ澄まされる感覚と…ただ『攻撃』の為に、戦況を先読みしようとする思考。
そして、それに機敏に反応する身体…ロリアは、自分の中に漲る力を感じ始めていた。

(ふーちゃんも、クアトさんも…オリオールさんだって、傷つけさせないッ!)

ド!ドド!ドンッ!!

悲鳴のような咆哮を上げながら迫るオボンヌに対し、その場から一歩も退かず、
冷静に、的確にクロスボウの矢を打ち込んでいく!
腕に、腹に、胸に、目に…最後は額に深々と突き刺さる。
それでも這いずり…ロリアの眼前まで迫るオボンヌ。
だが…攻撃しようとするそぶりすら見せず、そのままゆっくりと前のめりに倒れた。

「…よしッ、こっちも倒したッ!」

と、もう一匹を相手にしていたクアトが声を上げる。
最初の強烈な一撃が効いた為、緒戦とは比較にならないほど楽に勝負をつけた。
二人、顔を見合わせて、微笑で頷きあう。

「クアトさん、周囲警戒!オリオールさんは!?」
「待った、北からまた一匹!援護よろしくッ!」

お互いに、ここまで意識して『誰かと共闘する』という経験が初めてであり、
それがまた上手くいった事に、ある種の達成感を覚え始めていた。

…しかし、一人蚊帳の外にいる少女も居た。

「あ…あぁ…あ…」

フリーテは、落とした剣の鈍い輝きを見詰めたまま…一歩も動けないままであった。

戦わなければ、ロリアを守らねば、オリオールの気持ちに応えなければ…。
そう思って鼓舞してきた自分の心は、オボンヌのたったひと睨みで折れてしまった。
炯々と光る魔性の瞳は、押し留めていた恐怖をいとも簡単に引き摺り出した。
もはや、逃げよう…などという思考さえ回らない。
何も出来ない自分を客観視するという逃避に、フリーテは陥りつつあった。
目の前で、ロリアとクアトが戦っている様を見ながらも、動くことが出来ない。
しかも…緒戦の混乱から一転、戦意を立て直した二人を見て、その心は冷えていくばかりであった。

(やっぱり、ろりあんは一人でも…充分、戦う事が出来るんだ。
 それに、あんなにもクアトさんと息を合わせられる…。
 ほら…私が戦わなくても…私が守らなくても…私が、居なくても…!)

「フリーテッ!立てッ!剣を取れぇッ!!」

オリオールの叫びが、どこか遠い場所から聞こえるような気がする。
それでも、フリーテはただ…うわ言のように呟くことしか出来なかった。

「…ごめ、ん…なさい…許し、て…私、もう…ダメだ、よ…ろりあん…」

そして…ここに居る誰もがまだ、気付いてなかった。
震える事しか出来ないフリーテの背後に、三叉槍を手にした…強大な魔の影が、迫っていることを。





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