HyperLolia:InnocentHeart
−地下水道−
020:Underground


ロリア達四人がイズルードの街へ帰還してから、一週間が過ぎた。

選んだ宿は、フリーテが剣士となった直後に暫し投錨していた所であり、
女将は彼女らとの再会を笑顔で迎えたが、同時に戦闘による痕の色濃い一行に、驚きもした。
特に、クアト半漁人の槍を受けた大腿部からの出血多量で、意識を失ったままであり、
早急な処置が必要な状態だった。
ロリアも身体中に受けた打撃の後遺症か…宿に着くなり倒れて、熱を出してしまった。

軽傷であるフリーテと、こちらは殆ど無傷のオリオールが交替で二人の看病をし、
また、宿の女将も親身になって協力してくれたのは有難い事と言えた。

三日後、まずロリアがいつもの元気を取り戻した。
擦り傷や打撲痕が痛々しく残るものの、笑顔を見せた事にフリーテは心から安堵する。
問題はクアトの方で、意識が戻らないまま発熱に苦しむ様は、見ているだけでも痛々しかった。

今のルーンミッドガッツ王国では魔物の凶暴化に伴い、治療技術が急速な進歩を遂げている。
特別に調合されたポーションは、一昔前では考えられないほどの治癒促進、疲労回復効果があり、
数多の冒険者達にとって、必須のアイテムとなっている。
そして…その発展した治療技術の最たるものが、いわゆる聖職者の用いる『治癒魔法』である。
ほとんど瞬時に傷を塞いで、体力を蘇らせるこの神聖な力は、冒険者達の間ではもちろん、
冒険聖職者の登場に至り、民生の治療法としても急速に使用機会が広まった。
この一事をして王国正教会の発言力を増し、十字軍再編の原動力になったという噂まである。

だが…この『奇跡』も、万能という訳ではなかった。
死者をも蘇らせるとまで言われる治癒能力は、即ち『人間の肉体を急激に変化させる行為』である。
戦闘による激しい裂傷に対して、高位の治癒魔法は想定外の力を発揮してしまった。
ある剣士は筋を絶たれたまま…もう二度と、剣の握れない腕になってしまった。
勇戦の騎士は、足の神経が繋がらず…歩行もままならない障害を背負う事になった。
魔法使いの少女は…雑菌により塞いだ傷の内側から化膿し、右腕を失うことになる。
不自然に高められた人の自己回復能力は、やはり不自然な結果を多々招いた。
所詮…これはもたらされただけの、『神』の常軌を逸した力なのだ。
無論、それが死に到る致命傷なら、多少の後遺症を覚悟してでも魔法で命を拾うべきだとの意見もある。

しかし…便利に使われすぎた『奇跡』の代償に、一生を棒に振ってしまう可能性が明らかになるにつれ、
冒険者を含む人々が、治癒魔法との付き合い方を考え始めるきっかけにはなった。
現在ではよほどの緊急事態以外、高位の回復魔法はなるべく使わない事が主流になりつつある。
長い冒険者生活の中で、この治癒魔法の弊害を良く知るオリオールは、この事を二人に説明した。

…今回のクアトの怪我も、イズルードに多数投錨しているであろう冒険聖職者に依頼し、
治癒魔法を使って貰えば…二日、早ければ一日で完治してしまうかもしれない。
ただ、失血により基礎体力をごっそりと失っており、急激な回復は逆効果の危険があった。
また貫かれた半漁人の三叉槍は錆が酷く、どのような雑菌が入っているか判らなかった事。
そして、急速な治療によってクアトの身体に酷い傷跡を残したくないという、思い。

最後は、特にロリアが強く主張した事であったが…かつてのさすらい狼戦で、
背中に大きな爪跡を生々しく残しているフリーテの事を気に病んでいる事から…であろうとは、
オリオールはもちろん、フリーテ自身も容易に想像できた事である。

結局、苦しそうな表情のクアトを心配しつつも、持参していた薬で治療を行い、
体力の回復はポーションを使って、後は街医者に診せる事で自力回復を促した。
幸い、海底洞窟戦で撤収直前にかき集めた収集品は数こそ少なかったものの、
それらの売値はロリア達が今まで旅をしていた場所の物より、数倍の価値があった。
かつてなく潤沢になった資金で、ある程度高価なポーションを揃える事が出来たのは僥倖と言えた。

…もっとも、今のロリアやフリーテに出来るのはその程度の事のみであり、後は早い回復を祈るだけだった。




「いやぁ、これが若さってもんかねー!」

宿に運び込まれてから、きっかり一週間。
クアトはベッドの上で身体を起こし、昼食のカレーライスをがつがつと頬張った。

「んもぅ、そんなにがっつくとお腹壊すよ」
「ずーっと苦い水薬生活だったんだもん。あー!この食感が素晴らしいわー!」

ようやく、三日前に目を覚ましたクアト。
しかし熱が引かなかった為、続けてポーションを飲んで怪我と体力回復に努めていたのだった。
意識も血色もすっかり良くなったのは、むろん彼女の若さもあるだろうが、
何より奮発した『白いポーション』の効果が大きいのだろうと、ロリアは思う。
…ただ、オリオールが財布を預かり、大量に購入してきた水薬の相場を彼女は知らない。
恐らく、購入資金の大半が彼のポケットマネーから出ている…と察知できたのは、フリーテのみだった。

とは言え…傷が完治した訳ではなく、大腿部は今も厚い包帯で包まれている。
身体のあちらこちらに小さな傷跡を残し、満身創痍…という言葉がぴったりの様相だった。
側で微笑むロリアも似たようなもので、腕に足にと、包帯や絆創膏だらけの姿だ。
その様子を楽しげに見守るフリーテもまた、左脇腹を直撃した槍の傷で、服の下は包帯巻きである。
鎖帷子のお陰で軽傷とはいえ、クアトとロリアの心配ばかりをしすぎたせいか、
帰還してから丸一日…宿の女将に血の滲みを指摘されるまで、自身の怪我に気が回らなかった。

一人、絆創膏も要らないような軽微な傷だけに留まったオリオール。
部屋の隅で三人の様子を、ただ静かに見詰めていた。
…今回の戦いは無理をしすぎた上での、負け戦と言えただろう。
なんとか全員生還はできたものの、うち二人は自力で撤退する力すら失っていた。
遭遇戦とは言え、戦術も戦略も無く…がむしゃらに闘争本能をぶつけるような、粗雑な戦闘だった。
戦士として、冒険者として、不味い戦いをしたものだ思う。

だが…それでも、三人は今こうして笑顔を交し合っている。
死線を潜り抜けて、命からがら逃げ出した事への恐怖、脅え…そんなものは微塵も無い。
もしかしたら、かつてなく激しすぎた戦闘への現実感を喪失しているのかもしれない、とも思える。

(彼女らは…傷と引き換えに、恐怖を理解し、怯えを乗り越える力を得たのかもしれない。
 少なくとも、冒険者としての成長を促がす一事になったことは間違いないだろう。
 それが結果として顕れるのは、今後の戦闘次第だが…)

あれから一週間も過ぎたというのに、オリオールは思い出す度に…腕の震えがぶり返していた。

(だが、それは結果論だ…!私は、彼女らを、殺してしまっていたかもしれないのだ。
 見ろ…守るべき役目の私は、傷ひとつ負ってさえいない!)

海底洞窟で受けたロリア達の身体の傷は、癒えつつある。
だが、あの戦いで生じた自分自身に対する疑念は、オリオールの中で大きくなるばかりであった。
それは…彼が唯一、『心』に受けた傷、だったのかもしれない。




それから二日後。
人の賑わうイズルードの冒険商人が並ぶ街路で、ロリアとフリーテは各々の装備を再確認していた。
少し前に頼んであった、海底洞窟での戦いで痛んだ武器・鎧などの修理が完了したのだ。
無論、軽微な補修は修繕費節約の為にも自分達の手で行なったのだが、
専門家の手を借りなければならないほど、特にロリアの装備はボロボロになっていた。

修理を請け負ったブラックスミスは…気の強そうな瞳をした、金髪の少女だった。
後ろで結んだ髪が豪奢に輝くのと、使い込まれた皮手袋にハンマーを手にしたギャップに、
初めて会ったフリーテは、意味も無く溜息を漏らしたものだ。

レース…と名乗った鍛冶商人は、オリオールとは旧知の仲らしい。
今回の武器修繕依頼も『腕の確かな知り合いが居る』という事で、紹介されたのだ。
彼女のほうも二つ返事で引き受けてくれたのは良いが…ロリア達の装備の痛みに、閉口の表情を見せた。
特に…本来あるまじき使われ方をしたクロスボウの痛みは酷く、レースは苦笑いをしながら、
『買い直した方が早いかもしれない』とまで口にした。
だが結局、精錬による強化を含めて…今の物を直して欲しいと言ったのは、ロリア自身である。

完璧に修理されたクロスボウは弓身が延長され、弦の強度も今までより上がっており、
射出口下部には手持ち用の小剣を固定する事が出来る金具が取り付けてあった。
これは『弓による接近戦』を視野に入れた、ロリアなりのカスタマイズ案である。
しかし、アーチャーが接近戦をしなくてはならない状況…というのは、既に相当な危険状態だと言わざるを得ず、
精錬に当たってその要望を聞いたレースは、不思議な顔をしたものである。
また、尾部には展開式の腹当てが付いており、これで弓身を固定して精密射撃も出来るよう工夫されていた。
たった三、四日で修理するどころか、ここまでの強化を加えてしまった事に、
レースの腕は素晴らしく確かなものだ…と、ロリアは感嘆した。

かかとが削れたブーツもすっかり元通りになった上に、補強プレートまで追加されていた。
同じように、増加装甲込みで修繕されたフリーテのアーマーも新品のように輝いている。
マフラー・メントル等、クアトの防具一式もきれいに直されて戻ってきた。
ハンマーはあの海底から撤収の際、荷物になるのを嫌ったフリーテが回収を諦めている。
元より損傷が酷く、直して使えるようには見えなかったし、その話にクアトも納得していた。

装備を見比べながら談笑するロリアとフリーテを余所に、オリオールは小さな溜息をついた。
その様子に、レースは訝しげに彼を睨んだ。

「どうしたの?何か、あった?」
「…何が、だ?」
「難しい顔してさ、溜息ばっかついてるから」
「遺憾だ。レースに悟られてしまうようでは、仮面の意味も無いな…」
「どーせ、がさつな女ですよ」

ふん、と機嫌悪げに鼻を鳴らすレース。

「しかしまぁ…あの娘らの装備の痛みようったら無かったわよ?
 正直、預かったお金だけじゃ賄えない修理代になってるんだけど…。
 これって、あなたのツケって事でいいのよね?」
「構わんよ」
「あら、二つ返事なんて気前のいい事ね。
 …それとも、あの娘達に情でも移ってるのかしら?」

悪戯っぽく言ったレースだが、オリオールは表情を変えずに答えた。

「レースの冗談は、いつも性質が悪いな」
「なら、いいけど…これも例の『紋章捜し』の延長線上の仕事、なんだろうけどさ。
 目的は、あくまでその紋章を騎士団に渡さない事なんでしょ?
 個人の生き方にのめり込むと…あなたもあの娘達も、危険な事になるわよ」

その言葉に、オリオールは表情を強張らせた。
紋章…アズライト・フォーチュンを守る為に、ロリアに随伴している。
それはオリオール自身が望んだ役割であり、そうあらなければならないと理解していた。
だから、事あるごとにロリアの旅は彼女とその仲間のものだ…と、
しつこい位に面と向かって告げることで、彼自身の自覚をも促してきたのだ。

…だが、もう認めなくてはならないとオリオールは思う。

彼女らと共にあり、旅をする事そのものが、目的に変わりつつあると。
ロリアという少女の旅を間近にして、オリオールは新鮮な感銘を受け続けている。
普段は笑顔を絶やさない、ただの穏やかな村娘のようであるのに、
血を浴びて穢れる事も恐れず、大切な人の危機には臆することなく、敵に立ち向かう。
繊細な少女の部分と、強靭な戦士の部分を持つ、不安定さ…。
最初は危うさばかりを感じたオリオールも、次第にその見方を変えて行く事になった。

つまり…ロリアの行動原理は、全て自らの正義に基づいて行なわれているという事。
フリーテを助けるため、クアトを助けるため…。
ひいては、彼女が冒険者になった理由そのものが、誰かを助けるためなのだ。
その為になら危険を厭わない勇気が、確かに彼女には備わっている。
ただ…この純粋すぎる正義感や勇気が、どんな精神を源にしているのかは判らない。
恐らくロリア自身も理解していないのではないか、と思う。

しかし、もし…この純粋さそのものが、彼女の『本能』なのだとしたら。
紋章は、護符そのものが何か特別な力を持っているのでは無く…。
そういう『力』を持つ人間を選んで所持されるのかもしれない、とさえ思える。

(もしかしたら、ロリアは…『誰か』と呼ばれる、自分以外の全ての人々を助けられるかもしれない。
 しかしそれはあまりにも大きな、人間にとって巨大すぎる運命を相手にするのではないのか?
 例えばそれは…『世界』とまで形容出来てしまうような、大きすぎるものではないだろうか…?
 だが…ロリアという少女なら、そういう何者かになれるかもしれない…。
 そう思わせる何かがあると、私は感じ始めているのだ)

ロリアがロリアであり続けるであろう、旅の行く末を見てみたい。
そう思うことをオリオールは、不思議だとは感じなかった。
…だからこそ、許せない事がある。

(無理をさせてまで海底洞窟へ連れて行った、自分の傲慢。
 あの場所の敵レベルなら、自分ひとりでも三人を守れると思った自信過剰…。
 何より、現実として守る事すら叶わなかった体たらく…!)

フリーテが剣を取らなかったら?もう一匹でも、オボンヌが現れていたら?
ほんの少しでも状況が違っていれば…間違いなく、ロリアとクアトはこの世に居なかった。
自分の判断ミスで彼女らを危険な目に遭わせてしまった事は、悔やんでも悔やみきれない。
そして…ふと心に浮かんだ疑念は、消えることなく大きくなって行く。

(私は…彼女らの旅に、不要…いや、不適格者なのではないのか…?)

「色々お世話になりました、レースさん!」
「ありがとうございました」

新しい装備を手に、ロリアとフリーテが並んで頭を下げる。

「そんな改まらなくっていいって。
 私、遠征してない時は大抵ココか、ゲフェンに居るからさ。
 上の装備が欲しくなったら、また声掛けてよ」
「はい、その時はお願いしますね」

にこやかな談笑の後、ロリアはオリオールに向き直る。

「じゃ、オリオールさん。そろそろ宿に戻りましょう?」
「ん…ああ、そうだな」

花のような…と形容できるような、瑞々しい笑顔を見せるロリア。
その頬にも、首筋にも、装備を抱えた両手にも、生傷を隠す絆創膏が貼ってあった。

(私が付けさせた、傷なのだな…)

お辞儀して、歩き出す二人を追う様に…一歩踏み出したオリオールのマントを、
レースが鷲掴みにして引き止めた。

「な、何だ…レース?」
「…今度さ、アルデバランの時計塔の近くに拠点変えようかなって思ってるんだ。
 あそこ、相当厳しいみたいだけど、その分実入りも良いし。
 ま、私一人じゃちとキツいから…今は、相方募集中って所」
「む、そうなのか。それは初耳だな」

特別驚くでもないオリオールに、むっと表情を曇らせるレース。
そのままマントを引っ張ると、彼の顔を寄せて、耳元に囁いた。

「…いつまでも、あの娘達の面倒見てる訳じゃないんでしょ、って言ってるの!
 紋章でもあのロリアって娘でも、早いとこ何とかして…いつもの自由騎士に戻りなさいな。
 誰かに雇われてるの、オリオールらしくないよ」

レースとオリオール、そして『炎の悪魔』ことシルバーは、共通の友人である。
しかし、この紋章絡みの一件に関しては、レースは関わっていない。
曰く…事態がどう転ぶか判らないから、関わらせたくないというのが他二人の言い草だったが、
レースがこの扱いに大不満だったのは、当然といえば当然である。
とは言え…仮にも王国騎士団を向こうに回して、暗躍しているのである。
いざという時に、関わりの無い自分がオリオールやシルバーの隠れ蓑になれるという事も、
レースなりの役割なのだろう…と、今は納得していた。

そんな覚悟の上で、彼の旅をバックアップしているレースにとっては、
成り行きとは言え『駆け出し冒険者の保護者』などやっている事は、奇妙に感じざるを得ないのだ。

「…そうだな、私らしくないかもしれんな。その件は考えておく。
 今回は助かった、また連絡する」

オリオールは僅かに顎を撫でながらそう言うと、レースの肩を優しく叩き、歩き出す。
少し先でこちらを向いて待っていた二人に追いつくと、並んで雑踏の中へと消えて行った。

「ほんと、嘘が下手なんだから」

レースは誰にとも無く悪態を吐きながら、荷物をまとめてカートに放り投げて行く。
装備を渡した後、ここで露店を開くつもりだったが…今は、そんな気分では無かったのだ。

「…オリオールの、ばか」

それは、誰にも聞こえない…心の声が漏れてしまったかのような、囁きだった。




翌日。
ロリア、フリーテ、そしてオリオールはプロンテラ郊外にある地下水道内に居た。

これは基本的には、新しい装備の実戦チェックが主な目的であった。
だが、クアトの全快にはもう少し時間を要する以上、今は待つしか無いとはいえ、
この間に装備修繕・購入で消費した資金を少しでも回復させようという狙いもある。
商人であるクアトは自分が行けない事に渋りつつも、その考えには同調した。

向かう場所は、オリオールの提案でプロンテラの南西にある地下水道に決まった。
ここは首都プロンテラの重要な水源であったが、近年は小型の魔物が内部に巣食ってしまった為、
特定の工業用水の供給以外は、汲み上げポンプの稼動が停止に追い込まれている。
お陰で整備された上水道設備は機能せず、首都の水不足は深刻な問題のひとつなのだった。

以前は王国騎士団が毎月のように駆逐隊を派遣していたが、結局イタチごっこが続いた末、
冒険者の協力を要請する形で開放される事になった。
今では騎士団で許可を得た冒険者なら、誰でも内部に入ることが出来る。
その為、プロンテラを拠点とした駆け出し冒険者に人気のダンジョンになっていた。
…生憎と、魔物駆逐という観点からは芳しい成果が上がっていないのだが。

「ここならイズルードからでも近く、日帰りで帰れる距離だ。
 魔物もそう強力な種の存在は報告されていない。装備の試しにもってこいだろう」

そう言ったオリオールに全員賛成したものの、フリーテは疑問を覚えた。
近いというならば…何故、もう一度イズルード海底洞窟へ行かないのだろうか、と。
三層はまだ自分達には危険なのは良く判ったが、一、二層なら問題は無いのではないか。
もっとも…死ぬような危険を感じながら、何とか逃げ出した記憶に新しい場所である。
理屈ではなく、今は行くことを避けたい…という気持ちは、フリーテにも理解できた。

だが、オリオールという人物はそんな感傷より、実利を優先するタイプだと思っていたのだ。
…あの時以来、彼の表情に何となく覇気が無い事は、薄々感じている。
そういう意味では、肝を冷やしたのであろうオリオールもやはり人間であるのだな…と、
今更ながら親しみを覚えるフリーテは、自分を少し不謹慎かなとも思うのだった。

そして、訪れた地下水道へと入って行く三人。
フリーテを先頭に、中衛をロリア、最後にランプを持ったオリオールが後ろを固めた。
灯りは必須とは言え、地下水道の中は所々に松明が掲げられ、周囲がぼうっと薄暗いながらも見通せる。

ロリアの腰には失われたナイフの替わりに、新しく購入したマインゴーシュがぶら下がっていた。
クロスボウの先端にはダークと呼ばれる、柄の無い短刀を付けて接近戦に備え、
矢筒には炎の精霊石を鏃に使った、通称『火の矢』が一杯に入っている。

フリーテは愛用のブレイド、バックラーをそれぞれの手に装備。
風の精霊剣はこの地の魔物には相性が悪い為、置いてきている。
その代わり、腰のベルトには小型の魔物対策として、ロリアとお揃いのマインゴーシュが下がっていた。
ヘルメットは海底洞窟から出て気付くと、いつのまにか頭から無くなっていた。
半漁人戦の最中に、外れてしまっていたのかもしれない。
今は替わりにゴーグルを着用しているが、眼鏡と干渉してしまう為に、額にずり上げてあった。
しかし、これでもある程度の防御力は期待できる。

オリオールは珍しく背中の両手剣を外し、そこにシールドを背負って、手にはサーベルを握っている。
彼が片手、両手…どちらの剣も使える事に、フリーテは驚いたものである。
無論、オリオールとしては両手剣の扱いの方が長けているのだが、
この水道は時に場所が狭く、魔物も小型のものが多い為、取り回しを優先させたのだ。

そして、三人の足は驚くほどスムーズに進んだ。
敵を攻撃している、当のロリアやフリーテ自身が驚くほど、この水道に巣食う魔物は弱かったのだ。
ほんの二、三撃で足元をうろつく甲虫…通称『盗蟲』も、巨大な鼠『タロウ』も、あっけないほどに倒れて死骸を晒していく。
最初こそ攻撃対象に向かって群れる性質に慌てたが、一度その習性を知れば、
ロリアはもちろんフリーテですら軌道を読み、容易に対処する事が出来た。

「…何か、変な感じ」

右手を握って、ロリアはぽつりと呟く。

「どういう事ですか?」
「いや、ね…魔物って、もっと凶暴で、恐ろしいもので。
 悪戦苦闘しながら、何とか倒せるくらい強力な『敵』だって事が多かったから。
 何か、これじゃ…」

ロリアが視線を向けた足先には、ぴくりとも動かない魔物達が無数に転がっていた。
フリーテも、言わんとしている事は理解する。
相手が魔物とは言え…あまりに一方的すぎる事に、彼女自身もやや動揺していたからだ。

「…敵は敵、だ。ここの魔物は小型だが、群れれば人ひとりくらいは数分で喰らい尽くす。
 一匹一匹の戦闘力は弱いが、その生命力と繁殖能力は図抜けている。
 それが為にこの地下水道は占拠され、首都に住む多くの人が難を受けているのだ。
 人が襲われる事…その生き死にの問題だけが、魔物の被害では無い」
「そ、それは判りますけど…」

オリオールの言葉に、ロリアは視線を伏せる。
ただ…相手は魔物、人に害を為す魔性の生物、自分達の天敵。
そういう認識を少しでも忘れたら、これはただ虐殺を楽しむゲームのようになりそうで、
ロリアは無意識のうちに、自分がそれに慣れてしまうのが恐ろしかったのだ。

「戦いの最中でそう思えるのは、余裕が出てきた証拠だ。
 現に、君らは自分が思っている以上に強くなっている」
「そうなんでしょうか…」
「自分の戦力を把握する事は大切だ。それは敵を見極め、生き残ることに繋がる」
「自己評価するって事ですか…なかなか、難しいですね」
「…精進する事だ」

…オリオールは二人に説教がましい事を言いながら、自己嫌悪に陥っていた。
どの口が偉そうに語っているのだ…と、何処からか嘲笑が聞こえるような気さえしていた。




地下水道、第四層。
この最深部は、水源のある地下洞窟にフタをするような形で作られている。
その為、上から見る事が出来ればちょうど東西南北に対称の、規則的な形をしていた。
通路も足下は全て水が流れているはずなのだが、少し歩いただけではそれと判らない堅牢な作りである。
中央には汲み上げ用の巨大なポンプ部屋があるが、冒険者は立ち入り禁止となっている。

この階に冒険者が足を踏み入れ始めた頃、ひとつの噂が囁かれた。
曰く…この水源に流れ込むある支流の水の中には、『金』を含んだものがあり、
それだけを飲んで成長した盗蟲は変異し、黄金色に輝くのだと…。

「噂は噂、で終わることが多いのですけどね…」

フリーテが呟く。
伝説だと思われていた『黄金蟲』はここに確かに存在し『特別指定魔族』に指定された。
これは特に凶暴・かつ驚異的な力を持つ魔族に対して、王国が特別に手配を掛けたもので、
倒せば『MVP』などと呼ばれて賞金が出るし、公報にも名前が掲載される。
魔族…という呼称が使われているが、対象に多いという理由でそうなっているだけで、
最もランクの低い黄金蟲は、知性の無い『魔物』である。
当時、黄金色の巨大な甲虫の出現…という事実には余りの珍しさとインパクトがあり、
王国の関係者が思わず、勢いで指定してしまったという冗談めいた逸話もある。

とにかく…富と名声を得んとする冒険者にとって、この特定指定魔族を狙うというのは、
ひとつの有効な手段である…と認識されている。
もっとも、そのどれもが危険・凶暴極まりない個体であり、戦うのならばそれ相応のリスクをも
覚悟しなければならない存在と言えた。
もちろん、黄金蟲も然りである。

「でも、一度でいいから見てみたいよね」

群がる濃緑色の盗蟲を連射で倒し、矢を番えながらロリアは言う。

「あら、いっそ倒してしまおう…って言わないんですね?」
「私は『特魔』狙いだなんて自惚れるほど、自分を評価してないよ。
 見極めが大事…ですよねっ、オリオールさん」
「その通りだ」

オリオールに肯定されて、嬉しそうに頷くロリア。
フリーテは笑いながらも肩をすくめ、周囲に散らばった収集品を拾い始めた。

「そもそも、見掛ける事自体が稀な存在だ。
 奴を狙って、毎日のように此処に潜っている冒険者だって居るというのに、
 たまたま訪れた我々が簡単に遭遇するなどというのは、確立的に有り得ないだろう」
「そっか…ちょっと残念だなぁ」
「…あの」

と、フリーテの動きが止まっていた。
拾い集めていた収集品が、その手からばらばらと零れる。

「…あ、あれは、何なんでしょう…?」

ロリアとオリオールが、同時に目を向けた先。
…通路の曲がり角から、金色の光が溢れている!
ロリアは思わず息を呑んだ。
暗く陰湿なはずの地下路に、場違いなほどの異質な光が広がり…近づいてくる。
やがて、三人の視界に姿を現したそれは…『黄金蟲』、その名の通りの存在であった。

「す、すごい…」

フリーテは思わず呟く。
他の盗蟲の倍はあろうかという、巨躯。
それが黄金色に輝き、眩いばかりの光を発している。
特徴的なのは、前面にせり出した顎だった。
人間くらいなら容易に噛み切ってしまいそうな、巨大なものである。
その存在感、重厚感…なるほど、特別指定魔族と呼ばれるだけはある…と、ロリアは納得した。
だが、圧倒されるものを感じつつも…自分の中に、恐怖は無い。
ロリアは矢を番えたばかりのクロスボウの照準を、黄金蟲へと向ける。
その動きに気付いたフリーテも、合わせるようにブレイドを下段に構えた。

「…待ちたまえ、攻撃は駄目だ!」

オリオールが二人の動きを察知して、制する。
ここで出会った好機に、倒したい衝動にかられるのは彼にも理解できた。
が…やはり今のロリアやフリーテの実力程度では、如何ともし難い相手なのである。
オリオールには、いざとなれば…倒すことは叶わないまでも隙を作り、撤収のチャンスを作る自信はあった。
だが、それまでに二人の無事は、保証は出来ない。

(慢心が苦戦を呼び、悔いの残る戦いをするくらいなら…)

この時、オリオールは相当弱気になっていたと言えるだろう。
そして…ロリアとフリーテは、心に生まれた余裕が悪い方へと働いていた。
戦闘に対する慣れを、感じすぎていたのだ。
ここに到るまでの戦いが、容易すぎたのも原因のひとつに違いない。

「で、でも!こんなチャンス、滅多に無いですよ!?」
「フリーテ、驕るな!君らの力ではまだ相手は無理だ!」
「三人でかかれば!」

フリーテは攻め気になっていたが、この会話で反応が遅れたのは、幸いした。
黄金蟲の動きに気付くのが遅れたお陰で、攻撃の手が出なかったからだ。
だが…一人、冷静にクロスボウを構えていたロリアは、
想像以上に素早いその動きに、敏感に対応してしまった。

ヒュンッ!…キィンッ!!
思わず引き金を引いてしまったロリアの手元から、勢い良く矢が飛び出し、
黄金蟲の硬く、輝く甲皮へと命中した!
矢は弾かれて、側溝の水路へと落ちて行ったが…巨大な蟲は一瞬身動きを止めると、次の瞬間!

ガサガサガサガサガサッッ!!
先の動きよりさらにスピードを上げた、驚異的な素早さで三人へと迫る!

「えっ…!?」

ロリアとフリーテは、完全に虚を突かれた。
壁に身を擦りながらも、異常な速さで押し寄せる『光』に、目が眩む。
最も近い位置に居たフリーテは、慌ててバックラーを構えつつも避けようとするが。

「きゃあっ!」

勢いづいた蟲の前顎を避けきれず、盾ごと吹っ飛ばされた!
この時点で、魔物の狙いは先の矢の射手…ロリアだと、誰もがはっきりと認識する。
当の本人はその事に気付いても、いまだ冷静さを保っていた。
既に番えた第二射の照準を、迫る虫の顎の中心…口へと定めて、動かない。

(落ち着け…大丈夫、怖くない…!)

半ば祈り、半ば自己暗示のような言葉を頭の中で繰り返しながら、ロリアは引き金を引く!

ドスッ!!
鈍い音が聞こえたような気がした…が、一転、ロリアは身体を投げ出すように左へと跳んだ!
一瞬前まで自分が居た場所を、巨大な金色の化け物が蹂躙する。

確かに当たったのを見た…が、誤算は相手がまったく怯まない事であった。
ロリアは今更ながら『昆虫系』の魔物の性質を思い出し、舌打ちする。
普通の動物系…例えば、狼型の魔物などならば、攻撃による痛覚によって必ず隙が生まれるものである。
だが、昆虫系の魔物にはそれが無い。
身体の破損を自覚する事、それを体液等で中和し、自己治癒を促す作用などはあっても、
その状態を『痛み』という負の精神的感覚として認知できない…と言われている。
それは『心』や『精神』のようなものを持たないからなのかもしれないが、
ならば、狼や動物系の魔物にはあるのか…と聞かれると、誰も明確な答えを出すことは出来ない。
少なくとも、今は…自分の攻撃で相手がまったく怯む様子が無い、という現実が問題である。
ロリアは自分が落ち着いている事に満足しきって、相手の戦力を考えることを、完全に見落としていた。

(くっ、このままでは…!)

オリオールは身体中に、冷たい汗が噴出すのを感じた。
海底洞窟よりも安全であるはずだった、この地下水道。
偶然が重なったとは言え、まさか黄金蟲との会敵を予想していなかった…などと、言い訳は出来ない。
つくづく、戦いはいつも思い通りに運ばないものなのだと思い知らされる。

(…ここで、あの時の二の舞を演じるわけにはいかん)

あの速さで動き回る黄金蟲を、好きに行動させれば自ずとこちらが不利になる。
しかも、狙いはロリアだ。
いくら近距離戦も得意な彼女とは言え、戦うにも逃げるにも限界がある。

(ならば…その動きを、止めるしかない!)

起き上がったフリーテがその瞬間を見たとき、思わず声が出そうになった。
勢いづいた黄金蟲の突進を…オリオールがまるで受け止めるかのように、
その巨大な顎の中へ、自ら飛び込んだように見えたからだ。

ガキィンッッ!!
「…うおぉッ!」

対を成す角のような顎が、その内部に『敵』を捉えたと認識し…渾身の力で挟み込む!
オリオールは右手に盾を、左手は篭手の金属板部分を噛ませて、締め上げられた形になる。
それでも、握り締めたサーベルを動かしにくい腕で、何度も下顎の付け根に突き立てる。
バキッ…と、まるで板が割れるような音がして、サーベルが外骨格の中へ吸い込まれて行く。
緑色をした粘性の体液がどばっと溢れ、オリオールのグリーブを汚す。

「お、オリオールさんっ!」

慌てて立ち上がったロリアだったが、戸惑いの表情を見せて動かない。
その有様を見て、蟲を倒す事よりオリオールを助けなければ…と、それで頭が一杯になってしまった。
だがこの場合、彼に食らいついた魔物を倒すこととイコールである。

「わ…私に構うな!早くコイツにトドメを刺せッ!」

叱咤するような叫びに、我に返るロリア。
だが、その身が動くよりも早く、駆けつけたフリーテの一閃が甲皮へと振り下ろされる!
キィィィィンッ!!

「くうっ…!?」

黄金色の鎧は、その見た目に恥じない硬さを持っていた。
打ち付けたのと同じ強さでブレイドは弾かれ、路面を回転しながら滑って行く。

「腹だ…!脇腹は比較的、皮が薄い!」

上面は全て硬く守られている盗蟲も構造上、下面は比較的柔らかい。
とは言え…元々外骨格生物である以上、この巨大な蟲の腹に刃が通用するのか。
不安の色を表情から消せないまま、マインゴーシュを腰から引き抜くロリア。

(今は…オリオールさんを助けるためにも、攻めるしかない!)

同じくマインゴーシュを手にしたフリーテもほぼ同時に動く。
左右の脇腹へとそれぞれ切っ先を向け、黄金蟲の後足が蠢くのも構わず飛び込む!

ズシュゥゥッ!!

身体ごと当たるように突き刺した先端が、貫通!
吹き出した体液が、二人の利き腕を一瞬で濃緑色に染めた。
不思議と無臭だったが、生暖かくドロっとした感触にロリアは顔を顰める。

「う、ああッ…!」

その衝撃で、黄金蟲の顎がさらに強烈にオリオールを締め付けた。
サーベルが手から落ち、乾いた音を立てながら床に転がる。
左腕を守る篭手を固定する皮紐が、ブチブチと音を立てて弾けていく。

「だ、大丈夫ですかっ!?」

たまらず呻いたオリオールの声に、思わず顔を向けたロリア。
だが、彼に返事をする余裕は無い。
同時に…わさわさと激しく動いた後足の一本が、ロリアの腹部を蹴飛ばした!

「あうっ!」

突き刺したマインゴーシュを蟲の腹に残し、ごろごろと転げていく。
フリーテはその様子に息を呑みつつも、二の舞を避ける為、慌てて短剣を引き抜く。
距離を置いた彼女の左手からバックラーを奪って、棍棒のような足が横薙ぎに空を切る!

「ろりあん!」

腹部を押さえて蹲る姿は痛々しかったが、大きな怪我が無さそうな事に安堵した。
フリーテは転がっていたブレイドを拾い、マインゴーシュを左手に持ち替える。

(今まで散々、皆に迷惑を掛けた私だから…もう、みっともない姿を見せる訳にはいかないッ!)

この地下水道に来てからのフリーテは、やや気負いが強すぎたかもしれない。
海底洞窟での自分の失態が、ロリアやクアトを傷つけた要因だと…少なくとも彼女だけは思っている。
これからの戦いで、その償いをしなけらばならない…。
自分で自分を追い込む、この思考の傾向はフリーテという少女の欠点であると言えた。

振り回される後足を、左手のマインゴーシュで受け止め、振り払う。
その名に『左手』の意味を持つこの短剣は、元々相手の武器を受け流す為に作られたものだ。
誰もがそれを知識では知っていても、片手剣戦術と盾の精度・技術が発達した現在では、
これを受け流し用の防御用装備として使う冒険者は、ほとんど存在しない。
フリーテも盾が飛ばされたが為に…使い方を習った訳ではなく、ぶっつけ本番で使ってみたのだが、
なるほど、実は防御用途に特化された仕組みなのだな…と、やや驚きつつも実感する事ができた。

「ええいっ!!」

足の動きを止めたところで、先のマインゴーシュを刺した傷へとブレイドを突き刺す!
掌に不快な抵抗感を伝えながら、ずぶずぶと埋まって行く刀身。
そのまま、一気に腹を切り裂こうと…力を込めた瞬間。

「く…ッ!」

足の動きを封じていたマインゴーシュの刀身が弾かれ、ずり動いた足がそのままフリーテの鎧を直撃する。
しかし、勢いは弱い。
衝撃に弾かれるように跳んだフリーテは必死でバランスを保ち、転倒は免れた。
突き刺さったままのブレイドが、まるで新しく生えた足のように蠢いている。
ふと、視界に入ったオリオールの表情が、険しく歪んでいた。
いくら彼が強靭な身体を持ち、強固な鎧を着ていても、戦いを長引かせるのは危険だと察知する。
…だが、本当にこの金色の化け物を倒せるものなのか、とフリーテは困惑した。
少なくとも三箇所に傷を負い、勢い良く体液を噴出しているのに…一向に怯む気配が無い。
昆虫系の魔物がそういう性質だとは知っていても、実際にこうも攻撃の効果が現れない様には、
嫌な不安ばかりを増長させられてしまう。

ドスッ!!

そんなフリーテの迷いを振り払うかのような衝撃音が、蟲の身体から響いた。
巨体を挟んで、反対側。
倒れていたロリアが、そのまま…伏せた姿勢から矢を放ったのだ。
災い転じて、動かない標的の下腹部を正確に狙うに絶好のポジションを取っていた。

「…痛かったんだからあっ!」

憤怒の叫びを上げながら、次々に放たれた矢は目標を外す事無く突き刺さっていく!
新たなダメージに、もがく足の動きでフリーテは気付いた。
黄金蟲の動きが、明らかに緩慢になっている…!

(迷ってる…暇なんて、無いっ!)

再び、突進するフリーテ。
その両手共に、武器は無い。
ゆっくりと向かってくる後足を、篭手で無理矢理受け止める!
ごん…と鈍く重い衝撃を左腕に受けて、一瞬顔を顰めた。
しかし、もうその痛みにすら構わずに、右手を伸ばす。
腹部に突き刺さったままのブレイドの柄を、しっかりと握りこんだ。
さらに左手を添えて…両腕に、渾身の力を込める!

「これで…っ!!」

尾部に向かって甲皮を破壊しながら、その黄金の身体を引き裂いて行く刀身!
裂き切った所で、勢いあまったフリーテはごろりと転がってしまう。
…だが、これが致命傷となった。
いくら昆虫系だ、魔物だとは言え…臓物を剥き出しに裂かれて、なお生き続ける命はそうありはしない。
統制を失った6本の足がゆっくり、バラバラに揺れ始める。
小さな眼から光が消えていくのを見て、ロリアとフリーテはようやく理解した。
…戦闘に、勝ったのだと。

「お、オリオールさんっ!?」
「大丈夫ですかっ!」

弾かれたように、慌てて駆け寄る二人。
一体どのような力で締め付けられていたのだろうか。
盾はへこみ、左腕の篭手は完全に破壊され…顎の突起が食い込み、血が滲んでいた。

「…な、何とか、大丈夫だ」

オリオールの口元は笑みを形作ったが、疲れきった様子はありありと見て取れた。
ロリアとフリーテが左右それぞれの顎を掴み、引っ張る。
ようやく開放されたオリオールが、崩れるようにその場に座り込んだ。

「オリオールさん、どうしてあんな無茶な真似を…!」
「戦いに無茶は付き物だ」
「茶化さないで下さいっ!!」

そう叫んだロリアの目には、うっすらと涙が滲んでいた。
さしものオリオールも、気まずげに口を結ぶ。

「…あの場面では、とにかく動きを止めなければ奴を倒せないと思った。
 奴の顎の動きには習性があり、一度挟み込んだものは破壊するまで離さないのだ。
 幸い、私は鎧と盾の強度には自信があったのだが…レースめ、篭手は手を抜いて作ったようだな」
「な、何で、そこまでして…」

言いかけて、はっとしたロリアは口を噤んだ。
元より、オリオールは攻撃するな…と言っていたのだ。
初めて見た敵の動き、その黄金色の巨体に圧倒されて…矢を放ってしまったのは、自分だ。

(冷静に戦えてたつもりで…私は、敵に呑まれていたというの?)

戦いに『慣れ』すぎて…止められなかったのだ。
自分の中の、攻撃衝動を。
下世話な言い方をすれば…ロリアは珍しい強敵を前に、はしゃいでしまっていたのだろう。
これを殺戮ゲームだと思ってしまうのを、怖がったのは自分自身であったはずなのに。

(命の遣り取り…戦うという事そのものに、私は麻痺してきたのかもしれない…)

あの黄金蟲を見た途端、それまでの思考は霧散し、確かに自分は考えていた。
『どうやったら、あの敵を倒せるのか』…と。
敵の戦力も知らずに、そう思ってしまう事の恐ろしさ。
それが、オリオールを危険に晒したのだと…ロリアは、胸を針で突かれたような気持ちになる。

「あ…あの、私…」

言葉を選んでいた、その時だった。
それまで黙っていたフリーテが膝をついて、まるで縋るように…オリオールに抱きついたのだ。
あまりに突然の行動にオリオールはもちろん、驚いたロリアは思わず言葉を失った。

「…もう、こんな戦い方は…やめてくださいっ…!」

すん、すんと鼻を鳴らす音に混じって、そう呟く声。
フリーテは戦いの最中、黄金蟲を倒すことに集中するよう…自らに何度も言い聞かせていた。
それがオリオールを救出する一番手早く、確実な方法だと判っていたし、
何より『前衛を勤める剣士』としての役割を、今までの分も果たさなければならないという、
強烈な使命感、決心がそうさせていたからだ。

だが…戦い終わると、抑えていた気持ちがとめどなく湧き出してくる。
そしてフリーテは、ようやく気付いた。
あの海底洞窟以降、どうして彼の表情が冴えないままなのか…を。

(私と、同じなんだ…)

仲間を危険に晒してしまった事に対する、責任感。
むしろ、ロリア達を導く先輩冒険者という立場であった以上、オリオールの苦悩はより深いかもしれない。
海底洞窟から脱出する時に彼が呟いた…『すまない』の意味が、今は痛いほど理解できた。
だから、こんな無茶な…身体を張るような真似までして、守ろうとしたのだと。
勝利も敗北も関係ない、ただ自分とロリアの身から危険を遠ざける為だけの、
オリオールらしくもない、捨て身の判断だったのだろうと判る。
だが、それは…あの戦いで受けた、彼の精神的憔悴をそのまま物語っているのだ。

(なんて…不器用な人!)

いつも冷静で、正論しか口にしない堅物の自由騎士…。
そう思っていたフリーテにとって、垣間見た彼の『弱さ』は、非常に好ましいものに感じられた。
欠点だけを抽出して、オリオールを不完全な人間だと貶める気などは、さらさら無い。
ただ、自分も努力すれば…彼と肩を並べ、力になる事の出来るような者になれるのではないか。
そう思えるような弱さを見せてくれる事は、好意に値する…と、フリーテは思うのだ。
溢れそうな感情が、無意識のうちに身体を動かし、オリオールを抱き締めた。
他にどんな言葉や仕草で、今の気持ちを表現すればいいのか…判らなかったからだ。

「す、すまない、フリーテ…心配をさせてしまったらしいな。
 もう、こんなやり方はしない」

顔を上げ、オリオールの顔を覗き込むフリーテ。
眼鏡の奥には、大粒の涙が光っている。

「…本当、ですか?」
「もちろんだ…大物の登場に、私もつい興奮してしまったらしい。
 戦いはもっと有効かつ、スマートに行なわなければな…」

水銀のような輝きを持つ、フリーテの髪をふわりと撫でる。
それで落ち着いたのか…彼女はようやく、表情を柔らかくして頷いた。

その間、ロリアはまるで蚊帳の外であった。
二人は犬猿の仲…と言うより、フリーテが一方的にオリオールを避けていたのは、
ずっと一緒に旅をしていた身としては、良く知っている所である。

(アルベルタで、クアトさんが仲間になってくれた頃からだったっけ…?
 ふーちゃんのオリオールさんに対する当たりが、穏やかになったって感じたのは…)

そう、いつのまにか…刺々しく『騎士様』と呼ぶ事を辞めていたのに、気付いた。
ロリアにとって二人が仲良くするのは無論良い事だと思うし、嬉しく感じる。
その彼女が、いかに本気でオリオールの身を案じていたかも…咄嗟の行動に現れていた。
仲間として、それは…良い信頼関係の顕れだ、と思えるのに…。
同時に沸き起こった気持ちが、ロリアの胸の中で燻っている。

(私だって…オリオールさんを心配してたのに。
 でも、気付いたら自分の事と、戦いの事ばかり気にしていた…!
 私より…ふーちゃんの方が、オリオールさんの事を思っているというの…?)

三者三様の…口に出せない思いを秘めたまま、また一つの戦いが終わった。
ロリアは今も眩い輝きを放ち続ける、横たわる黄金蟲の巨躯へと目を向ける。

…もう、他の蟲の亡骸と、同じ色にしか見えなかった。






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